2006年09月13日

ちょうどいいテキストエディタ・ワープロはなかなかない

Ubuntuにしてから少し困っているのは、ちょうどいいテキストエディタ、ワープロがないことだ。私の仕事のかなりの部分は、文字入力が占めている。だから、ツールとしては、MS Wordのような多機能なワープロよりも、軽快に反応するテキストエディタの方が適している。複雑なレイアウトが絡んでくる仕事だと、今度はワープロレベルでは間に合わず、Indesignのようなレイアウトソフトが欲しくなる。とはいっても、テキストを入力していても、ちょっとした手紙なんかだったらテキストエディタからそのままプリントアウトしたくなる。だから、テキストエディタとはいえ、書体やフォントサイズ、行間などの簡単な書式設定はできるようになっていればありがたい。ところが、Ubuntuに搭載のテキストエディタは、入力は軽快で普通に使っている分には不都合はないのだが、書式設定は一括でしか行えない。タイトルだけ大きくとか、ここは右詰めでといったごく簡単なレイアウトでさえできない。完全に文字入力に特化している。そして、その上のものといったら、もうOpenOfficeしかない。しかし、これは機能が多すぎて、普段づかいのテキストエディタとして使うには勝手が悪い。いくらMacintoshのNeoOfficeよりは圧倒的に早くなったとはいえ、やっぱりメモリ食いには変わりなく、起動に時間がかかるし、先に初期設定ファイルを処分する前にはメモり不足でツールバーの表示が操作中に消えてしまうという始末だった。たまにちょっと複雑な作業をするときにはOpenOfficeでいいが、私の環境では毎日使うものではない。このOpenOffice、上記のように、複雑なレイアウトに使うわけだから、私はいうなればレイアウトソフトとして使っている。しかし、本格的なレイアウトソフトとして使うにはやっぱり機能が劣る。こっちのほうも、私の必要性からは、やっぱり機能がずれている。ということで、テキストエディタもワープロも、それぞれもうほんのわずかずつ高機能側に寄っていてくれると助かるのだが、そうなっていない。別のアプリケーションを探してみても、いまひとつだ。たとえば、Scribusが縦書が扱えないなどの不足があることは、以前にも書いた。KDEのKwordが、あるいは使えるかもしれないとおもって試している。少なくともOpenOfficeよりは軽いようだ。いっぽう、機能は、たとえば縦書ができないなど、OpenOfficeよりも劣る。だから、レイアウト機能のついたテキストエディタ程度の使いかたができないかと期待しているのだが、デフォルトの保存設定がテキスト形式ではないから、やっぱり使えないかもしれない。もう少しだけ試してみよう。私が欲しいテキストエディタは、MacintoshネイティブでWindows版もあるiTextだ。このフリーウェアの作者は非常にセンスがよくテキストエディタの軽量さと使い易さを損なわずに、簡易ワープロの機能を盛りこむことに成功している。こういう優れたソフトが入手できないのは、Ubuntuを使っていていらいらするところだ。やっぱり次のアップグレードではMacintoshに手が出るのかなあ。お金がないから、もうしばらくUbuntuは続くけれど。
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2006年09月12日

Anthyの再変換機能

Scim-anthyは非常に優れた変換システムなのだが、欲をいえばさらに難がないわけではない。たとえば、学習機能がないわけではないのだが、それは単語の選択レベルまでで、漢字の変換区切りは何度同じことをやっても学習しないし、単語辞書にも自動学習辞書はない。Macintoshのことえりでさえ、ちょっと複雑な変換を何度か続けてやると、それが自動学習辞書に登録される。Anthyにはそれがない。まあしかし、これは誤変換を辞書登録されてしまうといううっとうしい問題が発生しないぶん、かえって楽でもある。実際、かつてMacintoshはOS7.1のころにことえりにあった自動学習機能を、OS7.6のころにはいったんやめている。いつからいつまでと正確にはチェックしていないのだが(何せこの時代はことえりの馬鹿さ加減に嫌気をさしてAtokを使っていたので)、ともかく中途半端な自動学習機能はかえってスムーズな変換の妨げになる。
Anthyが優れているのか、辞書のkasumiが優れているのかわからないが、ともかくもscim-anthyでは変換がかなり正確に行われるため、自動学習機能がないという欠点は、「欲をいえば」というレベルにしか感じなかった。しかし、もうひとつ、再変換ができないという欠点は、どうにももどかしかった。キーボードの操作ミスで変換前のひらがな入力したものがそのまま確定されてしまうというミスをたまにおかしてしまう。こんなとき、Macintoshのことえりなら、入力部分を選択して再変換すれば問題はない。ところが、この機能がないと、また一から同じ文字を入力しなければならなくなる。いや、再変換は、scim-anthyでは実装されているはずである。anthyのサイトに行ってもそう書いてある。GTK2以上ということだが、それはUbuntuではクリアしているはずだ。しかし、再変換にこれまで何度かトライしたけれど、うまくいかなかった。これは、キーバインドの問題だろうと、以前から見当をつけていた。デフォルトで再変換は、shift+Henkanに設定されている。しかし、MacintoshキーボードではHenkanキーが無効になっているので、これを別の設定に変えなければならない。自分にとって楽なのは、Macintosh風にshift+spaceにすることだ。しかし、この組み合わせは、scimのオン/オフに割り付けられている。そこで、この割り付けをはずして、改めて設定してみた。けれど、再変換は作動しない。以前はここであきらめてしまっていた。しかし、これはどうも、浅はかなことだったようだ。shift+spaceは、ローマ字入力で半角スペースの入力が割り付けられているようで、そちらが優先して効いてしまう。だから、それ以外のキーの割り付けも試してみるべきだった。実際、shift+F1で割り付けてみたら、見事に再変換が動作した。なあんだという感じである。これでますます、scim-anthyへの信頼感は強まった。いよいよMacintoshに戻ろうという意欲が削がれていく。本当にMacintoshに戻れる日はくるのだろうか?
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2006年09月11日

GIMPはいいかもしれない。

しばらく画像をいじるような仕事が入っていないので、Ubuntuに搭載された画像処理ソフトの使い勝手を判断するような材料がなかった。GIMPは定評もあるし、何度か開いてみた印象も悪くなかった。だから、けっこういけるのではないかと思っていた。昨日、仕事ではないのだが、画像をいじる必要が生じて、ようやくGIMPを少し使ってみた。なかなかいい。初期画面で画像が選択状態になっているように見えるのはちょっとやりにくいし、ツール類の切り替えも慣れないせいか煩雑に感じる。使い慣れたPhotoshopとショートカット類もちがうし、欲しいツールがない(というか、使いはじめで見つけられないだけかもしれない)のもうっとうしい。しかし、その一方で、「おや、こんな便利な機能もある」とか、「このパネルは使い易いな」といった特徴があちこちにある。特に、処理の進行を示す表示がウィンドウ下端にあって、取消ボタンがそのすぐ横についているというレイアウトは好ましい。処理中のダイアログが画像を隠さないからだ。まだまだ使い込めばいろんな特徴がわかってくると思うが、これはけっこうPhotoshopよりもいいのかもしれない。実際、Photoshopは安くはないから、もうすっかり時代遅れの古いバージョンのものや、やや新しいけれどプロ仕様ではないもの、1ヶ月しか使えない試用版などのつぎはぎで仕事をしてきた。それで不足するところは、ImageJのようなフリーソフトを使っていたのだが、どうにも使い勝手が悪かった。「ちゃんと最新のPhotoshopを買えよ」という声が聞こえてきそうだが、私のようにグラフィック系はメインではなく、かといって年に一度か二度は使わねば仕事ができないような状況が訪れるという半端なユーザーには、AdobeのDTP三つ道具をそろえるのはやっぱり負担になるのだ。
そんな私にとって、GIMPは救いの神かもしれない。現在では、MacintoshにもGIMPは対応している。ただし、OSX10.3以上だったはずだ。10.2.8で止まってしまったMacintoshユーザーの私には、手が届かない存在だった。それが使えるようになっただけでも、Ubuntuに感謝かもしれない。
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2006年09月08日

いったん初期化

先日XubuntuとKubuntuを入れて以来、どうにも本来のGnomeの動きが遅く感じていた。おまけに、scim-anthyの設定がおかしくなり、変換ウィンドウの選択中の候補が強調表示されないというバグが出ていた。そのほかにも設定のおかしいところはあったのだが、これについてはホームフォルダ内にある「.scmi」という設定ファイルを捨てて再起動すると、もとに戻った。しかし、この強調表示のバグだけは何度やっても無理だった。そのほか、power-managerの表示もいまひとつ。どうも全体的におかしい。そこで、思いきってGnomeの設定を初期化してやろうと思った。といっても、クリーンインストールみたいな手間なことはしたくない。初期設定ファイルを、scimだけでなく、すべていったん捨ててみようというのだ。まず、ホームフォルダを開き、隠しフォルダを表示する。この隠しフォルダをいったん別のフォルダにすべてまとめて移しておく。それからいったんログアウトし、再ログインすると、懐かしい最初に見たUbuntuの画面が復活する。ここから、設定メニューを次々開いてカスタマイズしていく。以前に慣れていた環境が慣れてしまったせいで気に入っていたので、基本的にはそれに戻していく。入力システムの設定を終わってscim-anthyを使ってみると、今度はバグもない。全体的に、元通りにレスポンスも早くなったような気がする。さて、古い設定ファイルだが、これを捨ててしまってはいけない。まず、「.anthy」の設定フォルダには、ユーザー辞書やこれまでの変換の学習ファイルが入っている。そこでこれは元のhomeフォルダ内に戻してやる(新しいフォルダができている場合には入れ換えてやる)。それから、「.mozila」フォルダにはブラウザのブックマークやキャッシュ、設定などがあるからこれも復活する。「.mozila-thunderbird」には大切な過去メールがぎっしりつまっているから、これも復活。それから、「.gconf/desktop/gnome/connected_server」にはWebページをアップしてあるサーバーへのショートカットが記録されているから、これも所定の場所に復活する。これでほぼ、問題ないだろう。XubuntuやKubuntuを使っても、同じユーザーアカウントからログインすれば同じファイル群が使えるから、非常に便利に感じた。しかし、同じアカウントを使うということは、同じhomeフォルダに複数のデスクトップシステムの初期設定ファイルをため込むということであり、つまりはコンフリクトを起こす危険性を抱えこんでしまうことでもあるようだ。今後、もしハードウェアをアップデートするようなことがあったら、KubuntuやXubuntuにはもういちど挑戦してみたいと思っている。しかし、その場合には、安全のためにもユーザーアカウントは別にしておいた方がいいんだろうな。
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2006年09月06日

デスクトップ検索について

以前、「Ubuntuにはいいデスクトップ検索がない」と書いたが、ヘルプメニューのなかにはいっている「Ubuntu Bookからの抜粋」という文書を見ると、お薦めのソフトのなかにBeagleというデスクトップ検索ソフトが紹介してある。なあんだと、synapticを開いて検索をかけると、ちゃんと出てくる。以前にsynapticで検索したときには、検索条件の設定が悪かったのだろうか、見つけられなかった。少し悔しくもある。ともかく、このBeagleをインストールする。ところが、インストールしたBeagleが、どこにあるのだかわからない。あちこち探しても表示されていない。これまでもそういうことはあった。インストールしたアプリケーションは、Ubuntuがサポートしているものは、だいたいインストール後にアプリケーションメニューに自動で登録される。しかし、たとえばKDEのKOfficeのように、インストールしてもどこにも出てこないものもある。こういう場合は、ファイルシステムのusrのなかにあるbinを探す。最初はいったいプログラムがどこにあるのかわからなかったが、あちこち探している間いに、どうやらアプリケーションのプログラムはだいたいこのbinフォルダに格納されているらしいということがわかった。ここから起動できるし、aracarteを使えばアプリケーションメニューに登録しておくこともできる。しかし、Beagleはどこを探しても出てこなかった。探し方が悪いのかもしれないが、これでは使えない。残念と、いったんはあきらめた。ところが、ひょんなことから見つかった。ファイル検索をしようと思って、メニューバーから検索を探したら、ファイル検索のほかに、「検索」というメニューがある。どういうことかと思って開いてみたら、これがbeagleだった。なあんだ。さっそく使ってみる。まだ完成版ではないということだが、十分に機能を果たすようだ。いろいろ試しに使ってみるが、なかなかいい。ただ、たまたま仕事のサイクル上の問題で、これを十分に使って使い心地を確認できるようなところまではいっていない。ユーザーインターフェースに愛想がない気がするが、これもまだまだもう少し使い込まなければわからないだろう。ということで、とりあえずは「デスクトップ検索がありました」という報告までかな。
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2006年09月05日

いったんGnomeに復帰

Xubuntu、Kubuntuをインストールしてから、どうにもUbuntu(つまりGnome環境)でもエラーが多くなった。なんとなく動きが遅くなったような気もする。余分なことをしたからだと後悔しても後の祭りだが、ともかくも日本語入力システムの設定エラーが多いのに業を煮やして、skimとそのプラットフォームであるKDE環境を削除することにした。ついでにXfceも削除することにする。synapticを使うと、これらの削除は簡単だ。例によって、Xubuntuの削除はインストール同様に一瞬(数分)で終わったが、Kubuntuのほうは20〜30分かかっただろう。Xubuntuが軽いというのは体感できなかったが、こういうのを見ると、確かにシンプルで、その分軽いのだろうという気はする。ということで、大半はもとに戻したのだが、KDEのアプリケーションで使いたいものもあったので、それは残しておくことにした。Gnome環境でもある程度は使えそうだったから。たとえば、Kubuntuをインストールすると、「フォントのインストール」というアプリケーションが設定メニューにあらわれる。これがあれば、これまでどうしてもコマンド入力で対処しなければいけなかった数少ない場面のひとつが、GUIで行えることになる。これは嬉しいから是非残したい(ただ、やっぱりKDE環境とともに消えてしまったようでもあるけれど)。KwordやKwriteといったワープロ・エディタはそのまま使えるようだし、ブラウザのKonquorも、Firefox以外の環境ということで利用するつもりだ。そんなことを考えているから、システムがどんどん複雑になってしまうのかもしれないけれど。しかし、Xubuntu、Kubuntuを削除しても、起動時のスプラッシュはあいかわらずXubuntu、終了時はKubuntuになるのはなぜなんだろう。構わないけれど、不可解だなあ。いずれXubuntuには再挑戦したい。いつの日かはわからないし、そのころには私のハードウェア環境もUbuntuのバージョンもどうなっているかわからないけれど。
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2006年09月04日

XubuntuとKubuntu その2

Xubuntuは、それなりにいい環境かもしれない。環境の設定は、たとえばキーボードの細かい設定ができないことのようにUbuntu(Gnome)環境の方が便利なところもあるが、ウィンドウの外見をさまざまなパターンから選択できることのように、Xubunntu(Xfce)の方が便利なところもある。優劣ではないように思う。全体的なセンスは、Xubuntuのほうが垢抜けているように感じる。しかし、おそらくUbuntu、Kubuntuと同居させたせいで、噂のスピードは実感できなかった。さらに、既にUbuntuの環境に慣れてしまっていることと、キーボードの設定がどうしても気にくわないことの2点から、Xubuntuを使うべきかどうか迷っていた。迷っていたところにデスクトップが表示されないという大エラーが出た。それを機会にUbuntu環境に戻ることにした。ところが、Ubuntu環境が、XubuntuとKubuntuをインストールしたことで影響を受けてしまった。大した変化ではなかったのだが、たとえばメニューの表示のフォントがKDEの影響を受けて変わってしまった。これはKDEに入って設定し直すしかなかった。しかし、それはまあ、たいしたことではないだろう。もっとも苛立たせられたのは日本語入力のscimがskimになってしまったことだ。いや、それだけだったらまだよかったのだが、このskimの設定で、私が馬鹿なことをしたのがその苛立ちに拍車をかけた。私は個人的な好みとして、入力システムはバックグラウンドで働いてもらった方がいいと思っている。ツールバーや入力パレットは、できるだけ表示せず、キーボードショートカットで操作する方が好きだ(なぜなら操作中は指はキーボードの上を走っているのだから)。そこで、skimの表示設定を次々オフにしていった。すると、設定メニューを起動する方法がなくなってしまった。馬鹿なことだなあと思う。しかし、環境をあちこち切替えたことで、入力システムの使い勝手が少し変わってしまったのを戻そうと思ったら、どうしてもskimの設定画面に入らなければいけない。しかし、それがどうしてもできない。skimはもともとKDE環境のものだ。Gnomeで使うなら必要がない。しかし、これをオフにする方法もわからない。KDEに入ってみれば別の方法で設定がやり直せるかなと思って何度かKubuntuに行ってみたが、やっぱり操作できない。そうこうするうちに、skimの調子がおかしくなって、日本語変換そのものができなくなってしまった。これでは仕事にならない。頭を抱えてしまった。そのうちにツールバーの表示までおかしくなる。いろいろと試行錯誤をしたのだが、結局最終的な解決方法は、Homeフォルダに行って隠しファイルを開き、あちこち探してskimの初期設定ファイルを発見し、それを削除することだった。またまた無駄な時間をつぶしてしまったのだが、それから現状復帰のためのカスタマイズで、また無駄な時間をつぶした。最終的に、メニューバーの電源の表示だけは、どういうわけか復活しなかった。ともかくも、無事Gnomeに戻って、「なあんだ振り出しに戻る」じゃないかということになった。より使いやすい環境を求めてXubuntuとKubuntuを試してみたのだが、単純に「試した」ということだけに終わってしまったわけだ。けれど、この試用は、それなりの痕跡をとどめることになった。まず、(これは気のせいかもしれないが)、なんとなく全体に動きが遅くなったような気がする。もしもUbuntuの体感速度がMacOSと比べて早い原因がソフトウェアのシンプルさにあるのだとしたら、ごてごてと多くのアプリケーションをインストールしたことがマイナスに働いているのかもしれない。いっぽう、それまで使えなかったKDEのアプリケーションが、Gnome環境でも使えるようになったのはプラスの効果だろう。ブラウザのKonquereなど、いろいろなアプリケーションがある。以前は日本語が使えなかったKDE系のアプリケーションでも、skimのおかげか日本語入力ができるようになっているようだ。そのほか、終了時にGnomeでもリジュームが働くようになった。これは、設定のオン、オフができないので、嬉しい半面面倒なことになるかもしれないという予感はある。とりあえずはプラスの変化かなと思う。ひとつ、どうでもいいが大きな変化は、電源投入後の起動画面が、UbuntuではなくXubuntuのものに変化してしまったことだ。OSの根っ子の部分は共通しているからどっちでも同じなのだろうが、なんとなく違和感がある。そのうちどこかの設定で戻せるだろうとは思っている。
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2006年09月03日

XubuntuとKubuntu

Ubuntuには、Kubuntu、Edubuntu、Xubuntuというファミリーがある。このうち、Kubunuはデスクトップ環境をUbuntuのGnomeではなくKDEに変えたもの、XubuntuはXfceに変えたものである。Ubuntuをインストールしたすぐあとに、「デスクトップはGnomeよりもKDEのほうがいいよ。アプリケーションも多いし」というような話をどこかで見掛けていた。また、「XubuntuのほうがUbuntuよりも、古いパソコンではずっと早い」という話も聞いていた。だから、UbuntuではなくKubuntuかXubuntuを入れてみたいという気持ちはずっとあった。けれど、せっかくUbuntuで順調にいっているのに、余計な手を入れたくなかった。別のOSだから、新規インストールが必要になると思っていたのだ。ところが、だんだんUbuntuに慣れるうちに、これらのちがいはデスクトップ環境だけのちがいでその他の部分は共通しているから、UbuntuにKubuntu-desktopをインストールすればそれだけでそのほかのファイルをいじることなくKubuntuを起動できることを知った。Xubuntuに関しても同様に、Xubunutu-desktopをインストールする。インストールには、いつも使うsynapticを使えばよい。面倒なコマンドラインの入力は不要だ。そこで、まずXubuntuをインストールしてみた。これは一瞬(実際には数分)でできる。いったんログアウトし、「セッションの選択」に行ってみると、これまでなかった「Xfceでログイン」という項目ができている。ここから入ると、ネズミが走り回る起動画面が出て、Xubuntuになる。デスクトップ環境は、基本的にはGnomeとそれほど変わった印象は受けない。入力システムもそのままscimが使えるし、Gnomeでインストールしたアプリケーションもすべて同様に使える。フォントその他のアピアランスをカスタマイズして、すぐに実用的に使うことができた。軽いのかどうかは、少しぐらい使った程度ではわからない。慣れないせいか、画面の切替えが少しまだるっこしいように感じる。いいなと思ったのは、ログアウト時に開いていたアプリケーションを記憶しておいて、次回のログイン時にリジュームしてくれる機能がデフォルトになっていることだ。最近は息の長い仕事をやっているので、いつも同じファイルを開いていることが多い。終了したあと、同じファイルをいちいち開くのはめんどうだった。これなら、ログイン後にしばらく放っておいたら同じ状態が再現される。XubuntuにはGnomeではサポートされていないハイバネートの機能も終了オプションにある。これはいいやと思って試してみたが、私のハードウェアではやっぱりサポートされないようだ。これは残念。さて、次に、再びGnomeからログインし、Ubuntu環境でsynapticを使ってKubuntu-desktopをインストールする。こちらはインストールにけっこう時間がかかる。いろいろと設定で聞かれることもある。またログアウトし、再ログインすると、KDEでログインというオプションがあらわれている。そっちから入ると、Gnomeとはずいぶん異なったデスクトップ環境があらわれる。そういえば、これは産総研のKnopixxの雰囲気と似ている。あれをのぞいたのはもう数年前だが、あれもKDEだ。Kubuntuは、確かになかなかいい感じだが、ちょっと慣れるのに時間がかかりそうなので、当面は使わないでおくことにする。アプリケーションの数も多いので、先々使ってみてもいいかもしれない。ログアウトしようとすると、リジュームをする。ただ、これはXfceとちがって、リジュームしないでログアウトという設定がない。これでは、あまり面白くないことが起こるかもしれない。さて、それでは外見があまりGnomeと変わらず、軽いと噂のXubunutでも使うかとXubuntu環境にログインして、仕事をしばらくしていた。ところが、ある時点でデスクトップの表示が急におかしくなった。さらに、scimの表示がいつのまにか見慣れないアイコンに変わっている。skimということだが、これはKDE環境の入力メソッドらしい。KDEをインストールすることで、ほかの環境にまで勝手に進出してきているらしい。そのほか、メニューのアプリケーションも急に増えた。KDE環境固有のアプリケーションでも、ほかの環境で使えるものが、Kubuntuのインストールで増加してしまったわけだ。うれしいようでもあるが、ややうっとうしくもある。というのは、Xubuntuが噂ほど早く感じないのだ。3割ぐらいは早くなるという話だが、どうもそんなありがたさは感じられない。あくまで推測だが、もともとGnome環境が入っていた上に、KDE環境も追加されたわけで、ごてごてとたくさんのプログラムが入っている。それで、ごてごてする分だけ重くなってしまったのではないだろうか。さらに、Xfce環境では、キーボードの設定がPC98設定にできない。以前報告したように、これができないと、いくつかのキャラクターのキーアサインメントがずれてしまう。これはいちいち神経に触る。ともかくも、不満を抱えながら仕事していると、突然、デスクトップの表示が行われなくなってしまった。いろいろやってみたが、使えない。そこで、最終的に、もとのGnome環境で仕事をすることにした。しかし、ここからがトラブルの連続だった。詳細は次回にでも書くことにしよう。
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2006年09月01日

フォントのインストール ─ 今度は合法的に

Macintoshで使い慣れたフォントのインストールはあきらめたが、それでもフォントが各種あった方がうれしいのには変わりない。そこで、フリーのフォントがないか探していたら、Windows用に毛筆フォントがあるのがわかった。青柳衡山フォントで、行書や草書などがそろっている。Windows用ではあるが、別にUbuntuで使うことに著作権上の差し支えはなさそうなので、ダウンロードしてインストールさせてもらった。Windows 用のインストーラーは使えないので、フォントファイルを解凍して、それをTerminalのコマンドmvを使ってフォントフォルダに移動してやる。このとき、ファイルひとつひとつを移動するのではなく、フォルダを作っておいてそのフォルダごと移動してやれば手間がかからない。とりあえず日常に使うことはなさそうだが、このフォント、挨拶文でも書くようなときに活用させてもらうことにしよう。このとき、フォントフォルダを開いたついでに、普段使わないフォントのセットをいくつか、フォントフォルダから移動させてもらった。あまりにも使用可能なフォントが散らかりすぎて、うっとうしかったからだ。
Ubuntu はユニバーサル対応だから、各国のフォントが入っている。しかし、たとえばタイ語のフォントはまず使うことはないので、あるだけ邪魔になる。さすがに削除するのも遠慮されたので、とりあえず差障りのないところに移しておいた。本当はアラビア語やキリル文字なんかについても整理した方がいいと思うのだが、どのフォントを整理すればいいのかをいちいち判断するのも面倒なので、まだかなり不要なものが残っている。まあ、ぼちぼちとやっていくしかないだろうな。
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2006年08月31日

OpenOfficeにMacintosh版!

私がMacOSからUbuntuへの乗り換えを決断した背景には、私の古い環境でのMacintoshの遅さがあったのだが、特にその遅さを感じさせられたのはMacOS用にJava環境で開発されたOpenOfficeのバージョンであるNeoOfficeを使うときだった。Javaを使っているということでメモり食いなのが原因なのだろうけど、這いずるような遅さになる。測ったことはないが、たぶん起動するだけで5分はかかった。MS Officeの代替手段として、これでは使いものにならない。自分だけならなくても不自由しないいわゆるOffice Suiteだが、他人とかかわって仕事をする上ではやっぱりたまには必要になるのだから。さて、そのOpenOfficeだが、Javaを使ったNeoOfficeではなく、本家のOpenOfficeの方からMacintosh版が発表されたという。ベータ版のようだが、福音かもしれない。Macintosh版とはいいながら、Linux環境である「X」を使うらしい。実はLinuxのデスクトップ環境をMacintoshにインストールしてその上でOpenOfficeを走らせるというのは昔からあって、かつて私も試したことがある。その遅さは、筆舌につくしがたいものだった。おまけにMacintosh環境のフォントや入力システムが使えないということで、まったく使う気にはなれなかった。今回のバージョンは、Xを使うとはいえ、MacintoshネイティブのAquaで書かれているそうだから、きっともっとMacintosh環境に馴染んだものになっているのだろう。PPC版もあるから、私がいまだにMacintoshを使っていたとしたら、きっと試してみるだろう。Macintoshに戻る日がくれば必須の道具になるかもしれない。ただ、Ubuntuを使いはじめて2ヶ月、しばらくこの環境を動く気がなくなってきたのは事実なんだが。
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2006年08月30日

100%のUbuntuは無謀?

Ubuntuが急速に人気を集めているのは、なによりもほぼ完全にコマンドラインを使用せずに実用に供せるからだろう。私は何度かTerminalを開いてコマンドラインを打ち込んでいるが、振り返ってみれば、これはいずれもその必要がなかったものばかりだった。nautilusの作動がおかしくなった大トラブルのときでさえ、私が誤った対応をしなければ、GUIだけで解決がついたはずだったのだ。人気が高まっているのは、Googleで検索してみてもわかる。ほんの少し前、私がUbuntuを使いはじめた6月頃には英語版のGoogle Newsで検索しても数日前とか数ヵ月前の記事しか出てこなかったのに、昨日検索してみたら数時間前の記事がごろごろと出ていた。それだけ注目度が上がっているのである。そんな記事のひとつを読むと、やっぱりUbuntuをベタ褒めである。ユーザーインターフェースのよさが特に強調されているのは、私と同意見とみていいだろう。もっとUbuntuを使えと勧めている論調だ。だが、記事の最後の方は少し否定的だった。Ubuntuにはできないこともあるから、すぐにWindowsやMacintoshを削除してUbuntuに移行するのは勧められない、パニックに陥らないためにもデュアルブートにして使い慣れたOSを使い続け、趣味としてUbuntuを使ってみて、それに慣れてから徐々に移行すべきだろうと書いてある。そうだろうか? 確かに一気に移行するのは危険性が高い。私だって、最初はMacOSXとUbuntuのデュアルブートにしたいと思っていた。インストール時点でもっとしっかりフォーラムの記事を読んでいれば、きっとそうしていたと思う。しかし、私が無知で、MacOSXを搭載できなかったのは、ある意味ラッキーだったと思っている。もしもMacOSを積んでいたら、もっと頻繁にMacを立ち上げていただろうし、MacとUbuntuを比較したり、「やっぱりMacでしかできない」とMacとUbuntuの間を往復したりして、かなり無意味な時間をつぶしていたような気がする。確かにMacにできてUbuntuにできないことは(特にAT互換機ではなくPPCの環境では)いくらか存在する。手に馴染んだ道具としての感覚は、やっぱり使い慣れたMacintoshだろう。けれど、だからといってパニックに陥るほどの不自由さはない。いらいらして仕事にならないと席を立ってしまうほどの使いにくさはない。そんな不自由さ、使いにくさは、かつてWinXPを使ったときにはしょっちゅう感じていたのだ。Ubuntuにはそれはない。「もうちょっとここがこうなればいいのに、まあなければないで済ませるか」という程度の感覚なのである。確かに、その人その人の業務内容にもよるだろう。その人がパソコンに何を求めているのかによって100%のUbuntuが可能かどうかは大きく異なる。しかし、私だったら安全のためにデュアルブートにしておくなんてことは勧めない。緊急時に対処できる方法を確保するためにデュアルブートは必要かもしれないが、「趣味で使って慣れる」のではなく、全面的に使って慣れる方がベターだ。Ubuntuは、きっとそんな無鉄砲さに応えてくれるのだから。
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2006年08月29日

Writelyは使える

近頃Googleが買収したウェブアプリケーションに、Writelyがある。ウェブ上のワープロだというので、どういうものかと登録してみた。実際にはたいしたことはない機能で、たとえばブログに書き込むのと同じように、フォームのなかに書き込んでいって、それをウェブ上のサーバーに保存しておくだけである。ブログとのちがいはそれが公開されるかどうかだし、その気になれば公開することもできるのだから、まったく同じといってもいいかもしれない。デフォルトが公開か下書きかのちがいだけだろう。とまあ、登録直後は馬鹿にしていた。Javaで動作するプルダウンメニューは、MSWordと同じようになっていて、保存や印刷、書体の設定などができる。だから、ワープロとまったく同様に使えるといえばその通りなのだが、プリファランスがないため、たとえば日本語の書体を設定できなかったり、行間の細かい指定ができなかったりと、要するに日本語ワープロとしてはお話にならないぐらい機能が低い。何のメリットがあるんだろうというわけだ。ところが、少し使ってみて、これはいいなと認識を改めた。ワープロだと思うから機能が低く感じるので、テキストエディタだと思えばいい。そう思えば、Gnomeのテキストエディタには欠けている多くの機能が使えるわけだし、HTMLの出力もできる。OpenOfficeのように重いワープロを立ち上げなくとも、ブラウザさえ開いていれば瞬時に使える。物書きにはちょうどいい。それに、何より嬉しいのは、その自動保存機能だ。自動保存の機能は最近のワープロやエディタにもたいていついてくるが、実際には私はこれがうっとうしい。自分の環境だと、余分なバックアップファイルを勝手に作るのがややこしいのだ。しかし、これがウェブ上なら、そういうファイルはよそのサーバー上にある。ほとんど保存のことを気にせずに、どんどん書いていけるのがいい。そして、保存された文書が、自分のローカルにないというのもいい。これはセキュリティを他人(Google)に依存しているという怖いことでもあるが、自分のパソコンがクラッシュする可能性とGoogleのサーバーがクラッシュする可能性なら、後者の方がずっと低いだろう。そして、ローカルになければ出先からでもいじることが可能なわけだ。これはなかなかいいんではなかろうか。そして、肝心のことだが、WinやMacではないUbuntuの環境からでも、このWritelyは問題なく使えるのだ。
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2006年08月28日

違法行為は甘くない

先に、Windowsのフォント(拡張子がttfとttc)をUbuntuにインストールしたら無事に動いたということを報告した。ただし、これは私の環境にとって意味のないことだったので、試しただけでやめにした。たぶんまちがいなく違法行為だというのがわかっていたからでもある。しかし、同じ違法行為でも、Macintoshのフォントの移植は知らん顔でやってしまいたいと思っていた。WindowsのMS書体は(もうそれで慣れてしまった人が多いのでこんなことを言うと反対意見が多いと思うが)、センスのない書体である。少なくとも印刷・出版に少しでも関係した人間なら、あんな書体は商品としては使えないと断定するだろう。品がないというか、コンセプトがない。その一方で、Macintoshは古くから印刷・出版関係で使われてきただけあって、いい書体が多い。かつてのデフォルトのリュウミンや平成書体もそのまま印刷で使えたし、OSX以降のヒラギノ書体は申し分ない。Ubuntuであっても、ぜひこれは使いたいと思っていた。そこで、機会をみてMacintoshのシステムからこれらの書体を盗んで、Ubuntuのフォントフォルダにコピーしてやろうと思っていた。けれど、これは大失敗だった。Macintoshのフォントは、あまり行儀のよくないことにシステムのあちこちに散らばっている。主要なものはルートのLibrary内にあるが、そのほか、ユーザーのLibraryやアプリケーション、OS9のシステムフォルダにも存在する。ともかくも目指すヒラギノ書体はルートのLibrary内にあるので、それをコピーし、Ubuntuの/usr/share/fonts/内にコピーした。Windowsのフォントは、これでうまくいったのだ。ところが、再起動しようとすると、起動画面で引っかかっていつまでも動かない。ひょっとしたらファイル名が日本語になっているのがいけないのかと思ってファイル名をローマ字に変えてやったが、やっぱり動かない。結局、Terminalで起動してコマンドラインで削除してやらなければならなかった。やっぱり、無料で使おうなんて、考えが甘すぎたようだ。まあ、違法行為をやらずに済んだことを感謝すべきかな。
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2006年08月27日

Ubuntuは怖い?

Webのニュースサイトによると、先日の月曜日(ということは21日だと思う)、Ubuntuの自動アップデートでバグを含んだパッチが配布され、多くのユーザーのパソコンがコマンドラインからの操作以外は操作不能に陥ったそうである。私のiBookは、幸いにして影響を受けなかった。ハードウェア環境によって影響を受けたものとそうでないものがあるそうだから、PPCは大丈夫だったんだろうか。フォーラムに行ってみればもうちょっと詳しい情報がわかると思うが、ともかくも影響がなかったんだから、よしとしよう。このパッチは、もう修正されたということだし。自動アップデートの怖いところは、こういう有り難くない修正まで自動でアップデートしてしまうことである。こんなドジを踏むのはだいたいMicrosoftと相場は決まっているのだが、この時代、MSに限ったことではないらしい。普通、Linuxではパッチは開発者のフォーラムで十分にバグフィックスされてから出回る。Ubuntuの場合、「常に最新のアップデート」と謳っているところが墓穴になったのだろう。十分なテストを行わずにパッチを配信したわけだから(細かい経緯はしらないが、要はそういうことだろう)。けれど、いまのところ私は、「だからUbuntuは怖い」というような短絡的な結論を出すつもりはない。今回の致命的なバグでもデータそのものは失われなかったそうだが、実際、Linuxというのはうんざりするほど堅牢にできている。システムがこけても、なんらかの方法でともかく復帰はできる。たとえそれが、私の嫌いなコマンドラインを使うものであっても。
そして、そんな致命的なエラーは、どんなOSを使っていても、大なり小なり起こり得るものだと思う。ごくベーシックな基本、こまめにバックアップをとることを心がけさえすれば、そんなに恐れることでもない。ただ、今回のニュースで思ったのは、やはり予備のパソコンは1台くらい、どこかに遊ばせておいた方がいいんだろうなということだった。もしもトラブルが起こったら、その原因を調べるのにはやっぱりWebにアクセスするのがいちばんだろう。もしも起動できなくなったら、Webの検索もできなくなる。そんな場合、予備のパソコンがあったら助かるのはまちがいない。まあ、最悪、外付けHDからMacintoshで起動するという手はある。けど、ハードウェアがこけたらそうもいかないし。UbuntuをiBookに入れて以来ほとんど使う機会のなくなったデスクトップPCを、そろそろ廃棄しようかと思っていたが、もう少し緊急用に置いておくべきなんだろうか。しかし、場所塞ぎなんだがなあ。
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2006年08月26日

MacintoshもWindowsもない時代

仕事上の引き継ぎがあって、メールデータをごっそりとWindowsからUbuntuに移植した。現在Ubuntu上のThunderbirdにある過去メールデータはMacintoshから移植したものであるが、これはファイルをThunderbirdのMailフォルダにコピーするだけでできた。同様に、Windowsからのデータも、Mailフォルダへのコピーでなんの問題もなく片付いた。ほんの数十分の作業だった。まあ、もともとのデータがOutlook Expressのデータだっただけに、それを最初にWindows環境でThunderbirdのデータに変換しておいてもらうという下準備が必要だったのは事実である。ThunderbirdにはOutlook Expressのデータインポート機能がついているのだが、これはOutlook Expressがインストールされた環境下でしか働かない。だから、Outlookを受け付けないUbuntuの環境では直接のインポートができなかったのだ。ともかくも、移植したデータはMacintoshもWindowsも、出自に関係なくUbuntu上で普通に動いている。昔は、MacintoshとWindowsの間は、プレーンなテキストでさえ環境の違いからくる形式の差で文字化けたりごみが出たりした。現在でも、たとえば改行の記号の違いなどがあるのは確かだし、文字コードも以前以上にいろいろな形式が混在している。けれど、実用的にはどんどんOSの違いを意識することはなくなってきている。それも当然、全部根っ子はUnixだからだろう。そういうことでいえば、代替案のない怖い時代であるのかもしれないな。
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2006年08月25日

噂の億万長者

Ubuntuには億万長者のスポンサーがついているという噂はどこかで聞いていたが、先日、あるニュースサイトでその億万長者本人のインタビューを見かけたので、これが単なる噂ではないことを知った。その人物はMark Shuttleworthという名前で、私は聞いたことがなかったが、相当な有名人らしい。もっとも有名になったのは、ロシアの宇宙船に観光で(というか、いちおう科学実験は担当したらしいが、ともかく金を払って乗せてもらって)1週間滞在したということからだった。日本の新聞記者はじめ、金を払って宇宙に行く人はそろそろそれほど珍しくはなくなってきている。それでもこのShuttleworth氏、アフリカ大陸の国の国籍をもっている人としては初めて宇宙に行ったというので、話題になった(もともと南アフリカ国籍で、現在はイギリスとの二重国籍)。2002年のことだから、それほど古い話ではない。しかし、宇宙に行ったから億万長者になったのではなく、億万長者だったから宇宙に行く金を払えたのである。では、その金はどこからきたのかというと、ITビジネスだった。現在、ネットショッピングのほとんどのサイトにさりげなくロゴが入っているVeriSignという電子認証システムがあるが、このもとになった技術を開発した会社を経営していて、最終的にVeriSignにその会社を売却して巨額の富を得たわけである。そういう意味では、典型的なITベンチャー成功者であるといえる。現在はベンチャーゲームの「上がり」のあぶく銭で投資会社を運営しているから左うちわのようだが、そのかたわらでもっとも力を入れているのがUbuntuだということだ。投資は「虚業」だが、OSの配布は実業だろう。Shuttleworth氏を実業家というならば、Ubuntuこそが彼の現在の仕事だというわけだ。Shuttleworth氏は、金融工学を学んだばりばりのビジネスマンであるが、もともとはパソコンオタクの少年で、初期のLinuxの開発コミュニティにも関係していたそうである。だからUbuntuというのはなるほど、そこまで話を聞けばうなづけなくもない。なんでフリーのOSの頒布に億万長者がつくのかという謎は、このあたりから理解するのが妥当なようである。ま、金持の趣味の世界かな。本人は、「Linuxビジネスは右肩上がりで、これから儲かる」とかいってるみただけれど。私自身は宇宙開発もベンチャービジネスも大嫌いだ。それでもこういう背景を知っておくのはそれなりに興味深い。お金に色はついていないんだしね。
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2006年08月24日

古いMacintosh その2

以前にも書いた、3年前まで使っていたMacintoshをフリマに出品した。手放すのは非常に残念な愛着のある機械なのだが、スペースの関係で置いておけなくなったので、やむなく放出することにした。http://furima.rakuten.co.jp/item/64848075/お金なんかはどうでもいいけれど、愛情をもって使ってくれる人が見つかればいいなと思っている。近所のリサイクルショップに持っていっても引き取ってはくれるけれど、そうなればたぶん、完全なジャンク扱いで、二度と日の目を見ることはないだろう。それではあんまり可愛そうだから、フリマに出した。暇があったらUbuntuでも入れて遊んでみるんだけどなあ。
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2006年08月23日

日本語フォントの移植

たぶんまちがいなくライセンシング条件の違反になることだろうから書くのがはばかられもするのだが、WindowsのフォントをUbuntuにもってくると、それだけで使えるようになった。そういう話も聞いていたのでたぶん大丈夫だろうと思っていたのだが、やってみたらやっぱりそうだった。もとはといえば、IPAフォントのちょっとした不具合が原因である。IPAフォントはフリーフォントのくせにと言っては失礼だが、非常にクォリティが高く、一般的な使用状況ではまったく不都合は感じなかった。仕事の種類によっては(DTP系など)フォントの種類は10や20では足りないのだが、とりあえずその系統の仕事もここのところないので、不自由なく使っていた。ところが、このIPAフォント、特定の環境で、欧文大文字の「X」が「6」と表示されるという不具合を見せた。フォントを変えればもとどおりのXが表示されるから単なる一時的な表示の問題による文字化けなのだが、気持ちのいいものではない。仕事をしていても、「これって本当にXなの?」という不安が出てしまう。このトラブルはいつもというわけではなく、「A」が表示されないというバグになったときもあった。そこで、ほかのフォントを使おうかと思ったのだが、Gnomeのテキストエディタでスケーラブルにアンチエイリアスをとってきれいに表示されるフォントはIPAしかない。あとのフォントは、拡大した場合はアンチエイリアスで表示されるが、ワープロとして使う12ポイントとか10ポイントとかいった大きさではジャギーが出る表示になる。本来は、別にそれで不都合はないのだ。MacintoshだってOS9までの時代はそうだった。けれど、OSXになってデフォルトのフォントがかつてのリュウミンでも平成書体でもなくなって、状況は変わった。アンチエイリアスの美しいヒラギノ書体に慣れてしまうと、単純にエディタで文字を打っているときでさえ、きれいなフォントが欲しくなる。IPAはその欲求を満たしてくれるフォントだ。だが、文字化けは具合が悪い。そこで、よそのシステムからフォントを持ってくるという掟破りを考えた。本当はMacintoshからもってきたかったのだが、また外付けディスクをとりつけてMacintoshを起動させるのが面倒だったので、予備で置いている古いWindowsからフォントをもってくることにした。移動に使ったUSBディスクの容量が小さいので、移したフォントは4書体。Windowsのシステムフォルダ(隠しフォルダになっているWinNT)のなかにあるfontフォルダから適当なフォントをドラッグ&ドロップでUSBディスクに移し、次にこのスティックをUbuntuに突っ込む。Ubuntuのfontフォルダはusrのshareのなかにfontsとして入っているから、そこに適当なフォルダをつくってコピーしてやる。この際、ドラッグ&ドロップで決着がつけば話が早いのだが、アクセス権で拒絶されてしまう。これがLinuxのいいところでもありうっとうしいところでもある。そこで、先日のトラブルで練習したTerminalを使って、先日と同じmvのコマンドでフォントを移動してやることになった。それだけではフォントは使えなかったが、いったん再起動すると、お見事! あのなんともセンスのないウィンドウズのフォントが表示されるようになった。ただし、残念なのは、結局このフォント、IPAのようにはスケーラブルにアンチエイリアスがかかった表示にはならなかった。これではIPAの代用にはならない。ということで、再びmvを使って削除ということになる。まあ、違法行為をせずに済んだのだから(試してみるぐらいは大目に見てもらえるだろう)、それでよしという気もする。けれど、問題は解決していないのだから、次の手を考えなければならない。それはきっとMacintoshフォントの移植だろうけど、これまたライセンス違反になってしまうよなあと、悩みは尽きない。
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2006年08月21日

sudoへの恐怖感

私は、基本的にはパソコンの操作はGUIでするものだと思っている。MS-DOSの時代ならいざ知らず、いまどきコマンドラインを打ち込むのは時代錯誤ものだという気がする。いや、時代錯誤といういい方は違うだろう。MS-DOSの時代でさえ、私はAutoexecぐらいしかコマンドを打ち込まなかったと思う。コンピュータというものがコマンドを基本としているものだとしても、そこに留まっている機械だったら私は使わないだろう。GUIで素人にも使えるようにしてくれているから、使おうかなという気になる。コンピュータ技術者でもない素人ユーザーには、それで十分だと思っている。だから、MacでもWinでもコマンド入力はほとんどしたことがなかった。Macには、OSX以降、一応はTerminalがあって、コマンド入力ができるようになっている(OS7の時代にもエラーが起こってコマンド入力画面になったことはあったから、方法はあったのかもしれないが)。けれど、一度か二度だけ起動させた程度で、きちんとした使いかたなどわからないままで終わった。だからUbuntuでも、基本的にはコマンド入力などする気はなかった。しかし、Linuxの世界はまだまだコンピュータ技術者が幅をきかせる世界である。「そんなのはコマンド打ち込んだらすぐじゃない」というようなセンスがいきわたっている。実際、GUIでかんたんにできることが、Web検索などで出てきたページではコマンドラインを使うように解説してあることが少なくない。いやが応でも、何度かTerminalを開かないわけにいかなかった。実際には、素人がTerminalを開いても、できることはほとんどない。けれど、そういう無駄な動きで多少は使いかたを飲み込んでいたことが、先日の大トラブルからの脱出には役に立った。正確な解説は専門家に譲るとして、素人の感覚でいえば、Terminalを使うときの要点は、つまりはsudoである。Terminalを使わねばならないのは管理者権限を行使しなければならないときがほとんどで、管理者権限をユーザーレベルで行使するためには頭にsudoと打ち込むことになる。管理者とsudo、すなわちスーパーユーザーの関係についてはあちこちに蘊蓄を書いたサイトがあるが、ともかくもUbuntuでは管理者としてのログインがロックされていて、管理者権限の行使はsudoに一本化されている。そのほうがセキュリティが高いということだが、それは実際にどうなのか素人にはわからない。ともかくも、インストール時に登録したメインユーザーがスーパーユーザーになる資格をもっていて、このユーザーでログインしたときにコマンドラインの頭にsudoと打ち込むと、管理者権限を行使できる。つまり、なんでもできるわけだ。実際、複数のユーザーでひとつのシステムを使うことを前提に設計されたLinuxは、権限の有無にやたらとうるさいと感じる。ファイルやフォルダにアクセス権がないのはざらだし、うっかり作ってしまったフォルダが権利がないために削除できなくなったりする。移動や名称の変更に関してもいちいち権利がないとエラーになる。sudoであれば、こういった権限はすべて飛び越えられる。だったらメインユーザーでGUI環境にログインしているときには自動的にスーパーユーザーとして扱ってくれればいいのに、メインユーザーがスーパーユーザーになれるのはコマンドでsudoを入力したときに限られる(わけでもないが、感覚的には限られる)。だから、sudoのありがたさが感じられるのはTerminalを使っているときだけで、あとは平凡な一ユーザーに過ぎない。そして、私のような素人は、Terminalでコマンドラインを打ち込むのが怖い。うっかり入力ミスでもしたら取り返しがつかないと思ってしまう。そして、スーパーユーザーなら、システムを壊してしまうような操作だって可能なのだ。だからsudoは、本当に怖い。怖いけれど、ときにはこれをやらなければいけないことがある。それがセキュリティにつながっているのかもしれないけれど、かんべんしてほしいと思う。こういう恐怖を乗り越える必要性がなくならない限り、Linuxが一般ユーザーを掴むのは難しいだろうな、きっと。
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2006年08月20日

完全復活。しかし…

突然電源が落ちてしまった問題に発した大トラブルは、先日報告した通り、設定ファイルを捨てることでどうにか復活した。その際、メニューバー(パネル)の設定が一部元に戻らないという問題が残っていたのだが、これもどうにか復旧した。結局、パネルに乗せていたコンポーネントが脱落していたということで、これらを改めて「パネルへ追加」コマンドから追加してやればもとに戻るということだった。パネルに追加するのはパネルの上にポインタを置いて、右クリック(私の場合はF12)を押して「パネルへ追加」を選択する。「ウィンドウの一覧」「ウィンドウ切替器」「デスクトップの表示」はもともとデフォルトでパネルにあったものだから、かえって見つけるのに苦労した。そして、最後までわからなかったのは、「通知スペース」である。これは、普段はScmi-Anthyや電源のアイコンとして表示されている。だから、「パネルへ追加」の一覧にあるアイコンをみても最後までわからなかったわけだ。昨日、これをパネルにドラッグしてみたら、ずっと消えていた電源とAnthyのアイコンが現れた。なんだ、こんなことかと拍子抜けである。しかし、今回の事故で、Linuxも万全ではないということがよくわかった。とくに、素人にとってはトラブル発生時のレスキューがMacintoshに比べて心許ない。Ubuntuを使いつづけるのなら、少しはコマンドラインの入力法ぐらい身につけておかねばならないのだろうか。それはうっとうしくて嫌だなあ。
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