2006年08月21日

sudoへの恐怖感

私は、基本的にはパソコンの操作はGUIでするものだと思っている。MS-DOSの時代ならいざ知らず、いまどきコマンドラインを打ち込むのは時代錯誤ものだという気がする。いや、時代錯誤といういい方は違うだろう。MS-DOSの時代でさえ、私はAutoexecぐらいしかコマンドを打ち込まなかったと思う。コンピュータというものがコマンドを基本としているものだとしても、そこに留まっている機械だったら私は使わないだろう。GUIで素人にも使えるようにしてくれているから、使おうかなという気になる。コンピュータ技術者でもない素人ユーザーには、それで十分だと思っている。だから、MacでもWinでもコマンド入力はほとんどしたことがなかった。Macには、OSX以降、一応はTerminalがあって、コマンド入力ができるようになっている(OS7の時代にもエラーが起こってコマンド入力画面になったことはあったから、方法はあったのかもしれないが)。けれど、一度か二度だけ起動させた程度で、きちんとした使いかたなどわからないままで終わった。だからUbuntuでも、基本的にはコマンド入力などする気はなかった。しかし、Linuxの世界はまだまだコンピュータ技術者が幅をきかせる世界である。「そんなのはコマンド打ち込んだらすぐじゃない」というようなセンスがいきわたっている。実際、GUIでかんたんにできることが、Web検索などで出てきたページではコマンドラインを使うように解説してあることが少なくない。いやが応でも、何度かTerminalを開かないわけにいかなかった。実際には、素人がTerminalを開いても、できることはほとんどない。けれど、そういう無駄な動きで多少は使いかたを飲み込んでいたことが、先日の大トラブルからの脱出には役に立った。正確な解説は専門家に譲るとして、素人の感覚でいえば、Terminalを使うときの要点は、つまりはsudoである。Terminalを使わねばならないのは管理者権限を行使しなければならないときがほとんどで、管理者権限をユーザーレベルで行使するためには頭にsudoと打ち込むことになる。管理者とsudo、すなわちスーパーユーザーの関係についてはあちこちに蘊蓄を書いたサイトがあるが、ともかくもUbuntuでは管理者としてのログインがロックされていて、管理者権限の行使はsudoに一本化されている。そのほうがセキュリティが高いということだが、それは実際にどうなのか素人にはわからない。ともかくも、インストール時に登録したメインユーザーがスーパーユーザーになる資格をもっていて、このユーザーでログインしたときにコマンドラインの頭にsudoと打ち込むと、管理者権限を行使できる。つまり、なんでもできるわけだ。実際、複数のユーザーでひとつのシステムを使うことを前提に設計されたLinuxは、権限の有無にやたらとうるさいと感じる。ファイルやフォルダにアクセス権がないのはざらだし、うっかり作ってしまったフォルダが権利がないために削除できなくなったりする。移動や名称の変更に関してもいちいち権利がないとエラーになる。sudoであれば、こういった権限はすべて飛び越えられる。だったらメインユーザーでGUI環境にログインしているときには自動的にスーパーユーザーとして扱ってくれればいいのに、メインユーザーがスーパーユーザーになれるのはコマンドでsudoを入力したときに限られる(わけでもないが、感覚的には限られる)。だから、sudoのありがたさが感じられるのはTerminalを使っているときだけで、あとは平凡な一ユーザーに過ぎない。そして、私のような素人は、Terminalでコマンドラインを打ち込むのが怖い。うっかり入力ミスでもしたら取り返しがつかないと思ってしまう。そして、スーパーユーザーなら、システムを壊してしまうような操作だって可能なのだ。だからsudoは、本当に怖い。怖いけれど、ときにはこれをやらなければいけないことがある。それがセキュリティにつながっているのかもしれないけれど、かんべんしてほしいと思う。こういう恐怖を乗り越える必要性がなくならない限り、Linuxが一般ユーザーを掴むのは難しいだろうな、きっと。
posted by 松本 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | MacintoshでUbuntu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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