2006年08月31日

OpenOfficeにMacintosh版!

私がMacOSからUbuntuへの乗り換えを決断した背景には、私の古い環境でのMacintoshの遅さがあったのだが、特にその遅さを感じさせられたのはMacOS用にJava環境で開発されたOpenOfficeのバージョンであるNeoOfficeを使うときだった。Javaを使っているということでメモり食いなのが原因なのだろうけど、這いずるような遅さになる。測ったことはないが、たぶん起動するだけで5分はかかった。MS Officeの代替手段として、これでは使いものにならない。自分だけならなくても不自由しないいわゆるOffice Suiteだが、他人とかかわって仕事をする上ではやっぱりたまには必要になるのだから。さて、そのOpenOfficeだが、Javaを使ったNeoOfficeではなく、本家のOpenOfficeの方からMacintosh版が発表されたという。ベータ版のようだが、福音かもしれない。Macintosh版とはいいながら、Linux環境である「X」を使うらしい。実はLinuxのデスクトップ環境をMacintoshにインストールしてその上でOpenOfficeを走らせるというのは昔からあって、かつて私も試したことがある。その遅さは、筆舌につくしがたいものだった。おまけにMacintosh環境のフォントや入力システムが使えないということで、まったく使う気にはなれなかった。今回のバージョンは、Xを使うとはいえ、MacintoshネイティブのAquaで書かれているそうだから、きっともっとMacintosh環境に馴染んだものになっているのだろう。PPC版もあるから、私がいまだにMacintoshを使っていたとしたら、きっと試してみるだろう。Macintoshに戻る日がくれば必須の道具になるかもしれない。ただ、Ubuntuを使いはじめて2ヶ月、しばらくこの環境を動く気がなくなってきたのは事実なんだが。
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2006年08月30日

100%のUbuntuは無謀?

Ubuntuが急速に人気を集めているのは、なによりもほぼ完全にコマンドラインを使用せずに実用に供せるからだろう。私は何度かTerminalを開いてコマンドラインを打ち込んでいるが、振り返ってみれば、これはいずれもその必要がなかったものばかりだった。nautilusの作動がおかしくなった大トラブルのときでさえ、私が誤った対応をしなければ、GUIだけで解決がついたはずだったのだ。人気が高まっているのは、Googleで検索してみてもわかる。ほんの少し前、私がUbuntuを使いはじめた6月頃には英語版のGoogle Newsで検索しても数日前とか数ヵ月前の記事しか出てこなかったのに、昨日検索してみたら数時間前の記事がごろごろと出ていた。それだけ注目度が上がっているのである。そんな記事のひとつを読むと、やっぱりUbuntuをベタ褒めである。ユーザーインターフェースのよさが特に強調されているのは、私と同意見とみていいだろう。もっとUbuntuを使えと勧めている論調だ。だが、記事の最後の方は少し否定的だった。Ubuntuにはできないこともあるから、すぐにWindowsやMacintoshを削除してUbuntuに移行するのは勧められない、パニックに陥らないためにもデュアルブートにして使い慣れたOSを使い続け、趣味としてUbuntuを使ってみて、それに慣れてから徐々に移行すべきだろうと書いてある。そうだろうか? 確かに一気に移行するのは危険性が高い。私だって、最初はMacOSXとUbuntuのデュアルブートにしたいと思っていた。インストール時点でもっとしっかりフォーラムの記事を読んでいれば、きっとそうしていたと思う。しかし、私が無知で、MacOSXを搭載できなかったのは、ある意味ラッキーだったと思っている。もしもMacOSを積んでいたら、もっと頻繁にMacを立ち上げていただろうし、MacとUbuntuを比較したり、「やっぱりMacでしかできない」とMacとUbuntuの間を往復したりして、かなり無意味な時間をつぶしていたような気がする。確かにMacにできてUbuntuにできないことは(特にAT互換機ではなくPPCの環境では)いくらか存在する。手に馴染んだ道具としての感覚は、やっぱり使い慣れたMacintoshだろう。けれど、だからといってパニックに陥るほどの不自由さはない。いらいらして仕事にならないと席を立ってしまうほどの使いにくさはない。そんな不自由さ、使いにくさは、かつてWinXPを使ったときにはしょっちゅう感じていたのだ。Ubuntuにはそれはない。「もうちょっとここがこうなればいいのに、まあなければないで済ませるか」という程度の感覚なのである。確かに、その人その人の業務内容にもよるだろう。その人がパソコンに何を求めているのかによって100%のUbuntuが可能かどうかは大きく異なる。しかし、私だったら安全のためにデュアルブートにしておくなんてことは勧めない。緊急時に対処できる方法を確保するためにデュアルブートは必要かもしれないが、「趣味で使って慣れる」のではなく、全面的に使って慣れる方がベターだ。Ubuntuは、きっとそんな無鉄砲さに応えてくれるのだから。
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2006年08月29日

Writelyは使える

近頃Googleが買収したウェブアプリケーションに、Writelyがある。ウェブ上のワープロだというので、どういうものかと登録してみた。実際にはたいしたことはない機能で、たとえばブログに書き込むのと同じように、フォームのなかに書き込んでいって、それをウェブ上のサーバーに保存しておくだけである。ブログとのちがいはそれが公開されるかどうかだし、その気になれば公開することもできるのだから、まったく同じといってもいいかもしれない。デフォルトが公開か下書きかのちがいだけだろう。とまあ、登録直後は馬鹿にしていた。Javaで動作するプルダウンメニューは、MSWordと同じようになっていて、保存や印刷、書体の設定などができる。だから、ワープロとまったく同様に使えるといえばその通りなのだが、プリファランスがないため、たとえば日本語の書体を設定できなかったり、行間の細かい指定ができなかったりと、要するに日本語ワープロとしてはお話にならないぐらい機能が低い。何のメリットがあるんだろうというわけだ。ところが、少し使ってみて、これはいいなと認識を改めた。ワープロだと思うから機能が低く感じるので、テキストエディタだと思えばいい。そう思えば、Gnomeのテキストエディタには欠けている多くの機能が使えるわけだし、HTMLの出力もできる。OpenOfficeのように重いワープロを立ち上げなくとも、ブラウザさえ開いていれば瞬時に使える。物書きにはちょうどいい。それに、何より嬉しいのは、その自動保存機能だ。自動保存の機能は最近のワープロやエディタにもたいていついてくるが、実際には私はこれがうっとうしい。自分の環境だと、余分なバックアップファイルを勝手に作るのがややこしいのだ。しかし、これがウェブ上なら、そういうファイルはよそのサーバー上にある。ほとんど保存のことを気にせずに、どんどん書いていけるのがいい。そして、保存された文書が、自分のローカルにないというのもいい。これはセキュリティを他人(Google)に依存しているという怖いことでもあるが、自分のパソコンがクラッシュする可能性とGoogleのサーバーがクラッシュする可能性なら、後者の方がずっと低いだろう。そして、ローカルになければ出先からでもいじることが可能なわけだ。これはなかなかいいんではなかろうか。そして、肝心のことだが、WinやMacではないUbuntuの環境からでも、このWritelyは問題なく使えるのだ。
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2006年08月28日

違法行為は甘くない

先に、Windowsのフォント(拡張子がttfとttc)をUbuntuにインストールしたら無事に動いたということを報告した。ただし、これは私の環境にとって意味のないことだったので、試しただけでやめにした。たぶんまちがいなく違法行為だというのがわかっていたからでもある。しかし、同じ違法行為でも、Macintoshのフォントの移植は知らん顔でやってしまいたいと思っていた。WindowsのMS書体は(もうそれで慣れてしまった人が多いのでこんなことを言うと反対意見が多いと思うが)、センスのない書体である。少なくとも印刷・出版に少しでも関係した人間なら、あんな書体は商品としては使えないと断定するだろう。品がないというか、コンセプトがない。その一方で、Macintoshは古くから印刷・出版関係で使われてきただけあって、いい書体が多い。かつてのデフォルトのリュウミンや平成書体もそのまま印刷で使えたし、OSX以降のヒラギノ書体は申し分ない。Ubuntuであっても、ぜひこれは使いたいと思っていた。そこで、機会をみてMacintoshのシステムからこれらの書体を盗んで、Ubuntuのフォントフォルダにコピーしてやろうと思っていた。けれど、これは大失敗だった。Macintoshのフォントは、あまり行儀のよくないことにシステムのあちこちに散らばっている。主要なものはルートのLibrary内にあるが、そのほか、ユーザーのLibraryやアプリケーション、OS9のシステムフォルダにも存在する。ともかくも目指すヒラギノ書体はルートのLibrary内にあるので、それをコピーし、Ubuntuの/usr/share/fonts/内にコピーした。Windowsのフォントは、これでうまくいったのだ。ところが、再起動しようとすると、起動画面で引っかかっていつまでも動かない。ひょっとしたらファイル名が日本語になっているのがいけないのかと思ってファイル名をローマ字に変えてやったが、やっぱり動かない。結局、Terminalで起動してコマンドラインで削除してやらなければならなかった。やっぱり、無料で使おうなんて、考えが甘すぎたようだ。まあ、違法行為をやらずに済んだことを感謝すべきかな。
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2006年08月27日

Ubuntuは怖い?

Webのニュースサイトによると、先日の月曜日(ということは21日だと思う)、Ubuntuの自動アップデートでバグを含んだパッチが配布され、多くのユーザーのパソコンがコマンドラインからの操作以外は操作不能に陥ったそうである。私のiBookは、幸いにして影響を受けなかった。ハードウェア環境によって影響を受けたものとそうでないものがあるそうだから、PPCは大丈夫だったんだろうか。フォーラムに行ってみればもうちょっと詳しい情報がわかると思うが、ともかくも影響がなかったんだから、よしとしよう。このパッチは、もう修正されたということだし。自動アップデートの怖いところは、こういう有り難くない修正まで自動でアップデートしてしまうことである。こんなドジを踏むのはだいたいMicrosoftと相場は決まっているのだが、この時代、MSに限ったことではないらしい。普通、Linuxではパッチは開発者のフォーラムで十分にバグフィックスされてから出回る。Ubuntuの場合、「常に最新のアップデート」と謳っているところが墓穴になったのだろう。十分なテストを行わずにパッチを配信したわけだから(細かい経緯はしらないが、要はそういうことだろう)。けれど、いまのところ私は、「だからUbuntuは怖い」というような短絡的な結論を出すつもりはない。今回の致命的なバグでもデータそのものは失われなかったそうだが、実際、Linuxというのはうんざりするほど堅牢にできている。システムがこけても、なんらかの方法でともかく復帰はできる。たとえそれが、私の嫌いなコマンドラインを使うものであっても。
そして、そんな致命的なエラーは、どんなOSを使っていても、大なり小なり起こり得るものだと思う。ごくベーシックな基本、こまめにバックアップをとることを心がけさえすれば、そんなに恐れることでもない。ただ、今回のニュースで思ったのは、やはり予備のパソコンは1台くらい、どこかに遊ばせておいた方がいいんだろうなということだった。もしもトラブルが起こったら、その原因を調べるのにはやっぱりWebにアクセスするのがいちばんだろう。もしも起動できなくなったら、Webの検索もできなくなる。そんな場合、予備のパソコンがあったら助かるのはまちがいない。まあ、最悪、外付けHDからMacintoshで起動するという手はある。けど、ハードウェアがこけたらそうもいかないし。UbuntuをiBookに入れて以来ほとんど使う機会のなくなったデスクトップPCを、そろそろ廃棄しようかと思っていたが、もう少し緊急用に置いておくべきなんだろうか。しかし、場所塞ぎなんだがなあ。
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2006年08月26日

MacintoshもWindowsもない時代

仕事上の引き継ぎがあって、メールデータをごっそりとWindowsからUbuntuに移植した。現在Ubuntu上のThunderbirdにある過去メールデータはMacintoshから移植したものであるが、これはファイルをThunderbirdのMailフォルダにコピーするだけでできた。同様に、Windowsからのデータも、Mailフォルダへのコピーでなんの問題もなく片付いた。ほんの数十分の作業だった。まあ、もともとのデータがOutlook Expressのデータだっただけに、それを最初にWindows環境でThunderbirdのデータに変換しておいてもらうという下準備が必要だったのは事実である。ThunderbirdにはOutlook Expressのデータインポート機能がついているのだが、これはOutlook Expressがインストールされた環境下でしか働かない。だから、Outlookを受け付けないUbuntuの環境では直接のインポートができなかったのだ。ともかくも、移植したデータはMacintoshもWindowsも、出自に関係なくUbuntu上で普通に動いている。昔は、MacintoshとWindowsの間は、プレーンなテキストでさえ環境の違いからくる形式の差で文字化けたりごみが出たりした。現在でも、たとえば改行の記号の違いなどがあるのは確かだし、文字コードも以前以上にいろいろな形式が混在している。けれど、実用的にはどんどんOSの違いを意識することはなくなってきている。それも当然、全部根っ子はUnixだからだろう。そういうことでいえば、代替案のない怖い時代であるのかもしれないな。
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2006年08月25日

噂の億万長者

Ubuntuには億万長者のスポンサーがついているという噂はどこかで聞いていたが、先日、あるニュースサイトでその億万長者本人のインタビューを見かけたので、これが単なる噂ではないことを知った。その人物はMark Shuttleworthという名前で、私は聞いたことがなかったが、相当な有名人らしい。もっとも有名になったのは、ロシアの宇宙船に観光で(というか、いちおう科学実験は担当したらしいが、ともかく金を払って乗せてもらって)1週間滞在したということからだった。日本の新聞記者はじめ、金を払って宇宙に行く人はそろそろそれほど珍しくはなくなってきている。それでもこのShuttleworth氏、アフリカ大陸の国の国籍をもっている人としては初めて宇宙に行ったというので、話題になった(もともと南アフリカ国籍で、現在はイギリスとの二重国籍)。2002年のことだから、それほど古い話ではない。しかし、宇宙に行ったから億万長者になったのではなく、億万長者だったから宇宙に行く金を払えたのである。では、その金はどこからきたのかというと、ITビジネスだった。現在、ネットショッピングのほとんどのサイトにさりげなくロゴが入っているVeriSignという電子認証システムがあるが、このもとになった技術を開発した会社を経営していて、最終的にVeriSignにその会社を売却して巨額の富を得たわけである。そういう意味では、典型的なITベンチャー成功者であるといえる。現在はベンチャーゲームの「上がり」のあぶく銭で投資会社を運営しているから左うちわのようだが、そのかたわらでもっとも力を入れているのがUbuntuだということだ。投資は「虚業」だが、OSの配布は実業だろう。Shuttleworth氏を実業家というならば、Ubuntuこそが彼の現在の仕事だというわけだ。Shuttleworth氏は、金融工学を学んだばりばりのビジネスマンであるが、もともとはパソコンオタクの少年で、初期のLinuxの開発コミュニティにも関係していたそうである。だからUbuntuというのはなるほど、そこまで話を聞けばうなづけなくもない。なんでフリーのOSの頒布に億万長者がつくのかという謎は、このあたりから理解するのが妥当なようである。ま、金持の趣味の世界かな。本人は、「Linuxビジネスは右肩上がりで、これから儲かる」とかいってるみただけれど。私自身は宇宙開発もベンチャービジネスも大嫌いだ。それでもこういう背景を知っておくのはそれなりに興味深い。お金に色はついていないんだしね。
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2006年08月24日

古いMacintosh その2

以前にも書いた、3年前まで使っていたMacintoshをフリマに出品した。手放すのは非常に残念な愛着のある機械なのだが、スペースの関係で置いておけなくなったので、やむなく放出することにした。http://furima.rakuten.co.jp/item/64848075/お金なんかはどうでもいいけれど、愛情をもって使ってくれる人が見つかればいいなと思っている。近所のリサイクルショップに持っていっても引き取ってはくれるけれど、そうなればたぶん、完全なジャンク扱いで、二度と日の目を見ることはないだろう。それではあんまり可愛そうだから、フリマに出した。暇があったらUbuntuでも入れて遊んでみるんだけどなあ。
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2006年08月23日

日本語フォントの移植

たぶんまちがいなくライセンシング条件の違反になることだろうから書くのがはばかられもするのだが、WindowsのフォントをUbuntuにもってくると、それだけで使えるようになった。そういう話も聞いていたのでたぶん大丈夫だろうと思っていたのだが、やってみたらやっぱりそうだった。もとはといえば、IPAフォントのちょっとした不具合が原因である。IPAフォントはフリーフォントのくせにと言っては失礼だが、非常にクォリティが高く、一般的な使用状況ではまったく不都合は感じなかった。仕事の種類によっては(DTP系など)フォントの種類は10や20では足りないのだが、とりあえずその系統の仕事もここのところないので、不自由なく使っていた。ところが、このIPAフォント、特定の環境で、欧文大文字の「X」が「6」と表示されるという不具合を見せた。フォントを変えればもとどおりのXが表示されるから単なる一時的な表示の問題による文字化けなのだが、気持ちのいいものではない。仕事をしていても、「これって本当にXなの?」という不安が出てしまう。このトラブルはいつもというわけではなく、「A」が表示されないというバグになったときもあった。そこで、ほかのフォントを使おうかと思ったのだが、Gnomeのテキストエディタでスケーラブルにアンチエイリアスをとってきれいに表示されるフォントはIPAしかない。あとのフォントは、拡大した場合はアンチエイリアスで表示されるが、ワープロとして使う12ポイントとか10ポイントとかいった大きさではジャギーが出る表示になる。本来は、別にそれで不都合はないのだ。MacintoshだってOS9までの時代はそうだった。けれど、OSXになってデフォルトのフォントがかつてのリュウミンでも平成書体でもなくなって、状況は変わった。アンチエイリアスの美しいヒラギノ書体に慣れてしまうと、単純にエディタで文字を打っているときでさえ、きれいなフォントが欲しくなる。IPAはその欲求を満たしてくれるフォントだ。だが、文字化けは具合が悪い。そこで、よそのシステムからフォントを持ってくるという掟破りを考えた。本当はMacintoshからもってきたかったのだが、また外付けディスクをとりつけてMacintoshを起動させるのが面倒だったので、予備で置いている古いWindowsからフォントをもってくることにした。移動に使ったUSBディスクの容量が小さいので、移したフォントは4書体。Windowsのシステムフォルダ(隠しフォルダになっているWinNT)のなかにあるfontフォルダから適当なフォントをドラッグ&ドロップでUSBディスクに移し、次にこのスティックをUbuntuに突っ込む。Ubuntuのfontフォルダはusrのshareのなかにfontsとして入っているから、そこに適当なフォルダをつくってコピーしてやる。この際、ドラッグ&ドロップで決着がつけば話が早いのだが、アクセス権で拒絶されてしまう。これがLinuxのいいところでもありうっとうしいところでもある。そこで、先日のトラブルで練習したTerminalを使って、先日と同じmvのコマンドでフォントを移動してやることになった。それだけではフォントは使えなかったが、いったん再起動すると、お見事! あのなんともセンスのないウィンドウズのフォントが表示されるようになった。ただし、残念なのは、結局このフォント、IPAのようにはスケーラブルにアンチエイリアスがかかった表示にはならなかった。これではIPAの代用にはならない。ということで、再びmvを使って削除ということになる。まあ、違法行為をせずに済んだのだから(試してみるぐらいは大目に見てもらえるだろう)、それでよしという気もする。けれど、問題は解決していないのだから、次の手を考えなければならない。それはきっとMacintoshフォントの移植だろうけど、これまたライセンス違反になってしまうよなあと、悩みは尽きない。
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2006年08月21日

sudoへの恐怖感

私は、基本的にはパソコンの操作はGUIでするものだと思っている。MS-DOSの時代ならいざ知らず、いまどきコマンドラインを打ち込むのは時代錯誤ものだという気がする。いや、時代錯誤といういい方は違うだろう。MS-DOSの時代でさえ、私はAutoexecぐらいしかコマンドを打ち込まなかったと思う。コンピュータというものがコマンドを基本としているものだとしても、そこに留まっている機械だったら私は使わないだろう。GUIで素人にも使えるようにしてくれているから、使おうかなという気になる。コンピュータ技術者でもない素人ユーザーには、それで十分だと思っている。だから、MacでもWinでもコマンド入力はほとんどしたことがなかった。Macには、OSX以降、一応はTerminalがあって、コマンド入力ができるようになっている(OS7の時代にもエラーが起こってコマンド入力画面になったことはあったから、方法はあったのかもしれないが)。けれど、一度か二度だけ起動させた程度で、きちんとした使いかたなどわからないままで終わった。だからUbuntuでも、基本的にはコマンド入力などする気はなかった。しかし、Linuxの世界はまだまだコンピュータ技術者が幅をきかせる世界である。「そんなのはコマンド打ち込んだらすぐじゃない」というようなセンスがいきわたっている。実際、GUIでかんたんにできることが、Web検索などで出てきたページではコマンドラインを使うように解説してあることが少なくない。いやが応でも、何度かTerminalを開かないわけにいかなかった。実際には、素人がTerminalを開いても、できることはほとんどない。けれど、そういう無駄な動きで多少は使いかたを飲み込んでいたことが、先日の大トラブルからの脱出には役に立った。正確な解説は専門家に譲るとして、素人の感覚でいえば、Terminalを使うときの要点は、つまりはsudoである。Terminalを使わねばならないのは管理者権限を行使しなければならないときがほとんどで、管理者権限をユーザーレベルで行使するためには頭にsudoと打ち込むことになる。管理者とsudo、すなわちスーパーユーザーの関係についてはあちこちに蘊蓄を書いたサイトがあるが、ともかくもUbuntuでは管理者としてのログインがロックされていて、管理者権限の行使はsudoに一本化されている。そのほうがセキュリティが高いということだが、それは実際にどうなのか素人にはわからない。ともかくも、インストール時に登録したメインユーザーがスーパーユーザーになる資格をもっていて、このユーザーでログインしたときにコマンドラインの頭にsudoと打ち込むと、管理者権限を行使できる。つまり、なんでもできるわけだ。実際、複数のユーザーでひとつのシステムを使うことを前提に設計されたLinuxは、権限の有無にやたらとうるさいと感じる。ファイルやフォルダにアクセス権がないのはざらだし、うっかり作ってしまったフォルダが権利がないために削除できなくなったりする。移動や名称の変更に関してもいちいち権利がないとエラーになる。sudoであれば、こういった権限はすべて飛び越えられる。だったらメインユーザーでGUI環境にログインしているときには自動的にスーパーユーザーとして扱ってくれればいいのに、メインユーザーがスーパーユーザーになれるのはコマンドでsudoを入力したときに限られる(わけでもないが、感覚的には限られる)。だから、sudoのありがたさが感じられるのはTerminalを使っているときだけで、あとは平凡な一ユーザーに過ぎない。そして、私のような素人は、Terminalでコマンドラインを打ち込むのが怖い。うっかり入力ミスでもしたら取り返しがつかないと思ってしまう。そして、スーパーユーザーなら、システムを壊してしまうような操作だって可能なのだ。だからsudoは、本当に怖い。怖いけれど、ときにはこれをやらなければいけないことがある。それがセキュリティにつながっているのかもしれないけれど、かんべんしてほしいと思う。こういう恐怖を乗り越える必要性がなくならない限り、Linuxが一般ユーザーを掴むのは難しいだろうな、きっと。
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2006年08月20日

完全復活。しかし…

突然電源が落ちてしまった問題に発した大トラブルは、先日報告した通り、設定ファイルを捨てることでどうにか復活した。その際、メニューバー(パネル)の設定が一部元に戻らないという問題が残っていたのだが、これもどうにか復旧した。結局、パネルに乗せていたコンポーネントが脱落していたということで、これらを改めて「パネルへ追加」コマンドから追加してやればもとに戻るということだった。パネルに追加するのはパネルの上にポインタを置いて、右クリック(私の場合はF12)を押して「パネルへ追加」を選択する。「ウィンドウの一覧」「ウィンドウ切替器」「デスクトップの表示」はもともとデフォルトでパネルにあったものだから、かえって見つけるのに苦労した。そして、最後までわからなかったのは、「通知スペース」である。これは、普段はScmi-Anthyや電源のアイコンとして表示されている。だから、「パネルへ追加」の一覧にあるアイコンをみても最後までわからなかったわけだ。昨日、これをパネルにドラッグしてみたら、ずっと消えていた電源とAnthyのアイコンが現れた。なんだ、こんなことかと拍子抜けである。しかし、今回の事故で、Linuxも万全ではないということがよくわかった。とくに、素人にとってはトラブル発生時のレスキューがMacintoshに比べて心許ない。Ubuntuを使いつづけるのなら、少しはコマンドラインの入力法ぐらい身につけておかねばならないのだろうか。それはうっとうしくて嫌だなあ。
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2006年08月19日

しなくてもよかった失敗について

昨日のトラブル解決の書き込みだけを読めばデスクトップが消えてしまうというnautilusの事故もそれなりにすんなり解決したように見えるかもしれないが、実際にはやらずもがなの余分な操作をしてしまったために、一時は起動不能に近い状態にまでなってしまった。その回復については、トラブルの本質ではなかったので昨日は書かなかったが、備忘のために恥を忍んで書いておくことにしよう。最初にnautilusのトラブルだと見当をつけたときに、実は早速、Web検索をかけてみた。すると、同じように「nautilusの突然の怪死」について書いてあるページがあった。それを見ると、ホームフォルダの入れ換えで解決している。後知恵でこれを見れば、なるほど、トラブルを起こした設定ファイルはHOMEフォルダ内にあるから、これを入れ換えれば無事に起動するわけだ。けれど、そのときはそこまではわからなかった。ただ、Homeフォルダを入れ換えればいいのだろうと、大雑把に考えた。そこでまず、システム管理の「ユーザーとグループ」から新規ユーザーを作って立ち上げてみた。これは肩慣らしのつもりだったが、これでnautilus自体が壊れているのではないことが確認できた。ここまではよかったのだ。この新規ユーザーは、環境がデフォルトなので、日本語入力もできなければ、フォントも汚らしいままである。それでもとりあえずこの環境からバックアップだけでもとってやれとメインユーザーのデスクトップにアクセスしたら、一部のファイルがロックされている。権限がないというわけだ。それでも最低限必要なファイルだけはバックアップできたので、次にメインユーザーに戻った。あいかわらずnautilusは死んでいるが、それでもそれ以外には通常の操作はできるので、再び「ユーザーとグループ」から入って、メインユーザーのデスクトップの指定をデフォルトから別のフォルダに変えてやった。ついでに、別ユーザーからバックアップでファイルがとれるように、それまでのメインユーザーのHomeフォルダのアクセス権をすこし緩めておいた(これが余分なことの上にさらに余分なことで、後で話をややこしくした)。さて、ログアウトして再ログインしようとすると、Homeフォルダを見つけられないせいでログインできない。具体的には、「Home/.dmrc」というファイルが読み込めないというエラーメッセージが出る。さてさて困った。しかたないからもとに戻そうと思って、別ユーザーでログインしたら(このあたりまでは落ち着いていた)、別ユーザーは権限が低いため、「ユーザーとグループ」を操作できない。これは素人のはまる落し穴だった。いつでももとに戻せると思ったからいい加減なことを強行したのに、これでは後戻りできないではないか。しかも、メインユーザーの特定のファイルやフォルダにはあいかわらずアクセスできない(これは当然といえば当然で、Macintoshのように「フォルダ内の項目にも適用する」というオプションがないのだから、上位のフォルダのアクセス権だけ変えても意味はなかったのだ)。だから、「最後の手段」と思っていたファイルをバックアップして再インストールという方法はとれないことがわかった。このあたりで少し焦り始めた。幸い別ユーザーでログインしていたから、Web検索はできる。ただ、日本語入力環境ができていないため、けっこう面倒臭い。それでもTerminalのコマンド入力でファイル名を変更する方法を見つけることができた。元のHomeフォルダの名称を変更して、ログイン時に見つけられるようにしてやろうという作戦である。まず、「ユーザーの切替え」でログイン画面に戻り、「セッションの選択」で「フェールセーフのterminal」を選んでメインユーザーでログインする。するとterminalの画面になるから、ここでコマンドラインの入力で、Homeフォルダの名前を、先に「ユーザーとグループ」で変更しておいたものにあわせる。これでログインできるだろうと思ったのは甘く、やっぱりログインできない。しかし、ここまできたら、先ほどには不可能だった「セッションの選択」で「フェールセーフのGnome」というオプションからログインすることはできた。ここまでくればあとは失敗を帳消しにする作業である。まず、Homeフォルダの指定を元通りにし、それからHomeフォルダのアクセス権も元に戻す(これもエラーメッセージが出ていたのだ)。それから、「Home/.dmrc」というファイルも隠しファイルの表示で見つけて、アクセス権を指定された通りに変えてやった。さらにいったんログアウトし、再びTerminalからHomeフォルダの名称を元通りに戻す。さてこれで、nautilusがこけた時点(すなわちログインはできるがデスクトップが表示されない状態)まで復帰できたと思ったら、やっぱりログインできない。これはかなりがっかりきた。しかし、ここにきてようやく、metacityの設定ファイルを捨てるという知恵を思いついたのだから、まあ無意味でもなかったのかもしれない。これは、先に隠しファイルの表示をやったときに、設定ファイルも見つけていたから思いついたことだ。それに、設定ファイルに関するエラーメッセージは、ここにきてようやく出てきた。いろいろいじったからヒントが得られたのだと思えば、この悪あがきも百%の無駄ではなかったかもしれない。ともかく、フェールセーフのGnomeからログインして設定ファイルを捨てたら、ようやくメインユーザーでログインできて、しかもnautilusが復活した。細かく書けば、昨日の顛末はこういうことだったのである。しかし、こう書いても、読んでいる人には私が何をやっていたのかさっぱりわからないだろう。自分でもそうである。パソコンのトラブルなんてそんなもの。どんどんわけわからないところに踏み込んで悩み、最後に思いもかけず薮から外に出る。神経に悪い2時間だった。
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2006年08月18日

初の大トラブル:nautilus

Ubuntuにして以来、トラブルらしいトラブルはほとんどなかった。使いかたがわからないために苦労したこと、設定やインストールで「こうなってほしい」と思ったことがなかなかできなかったことなど、トラブルといえばトラブルだが、それはまあ、素人の実力のうちである。パソコンを使っていて経験する多くのトラブル、すなわち、システムやアプリケーションの損傷は、この1ヶ月半でまったくといっていいほど経験しなかった。スリープからの復帰時にエラーメッセージが出たりアプリケーションがフリーズしたり、あるいはスリープ中のパソコンがそのまま停止してしまった(これは子どもが中途半端に蓋を開けたからではないかという疑いが強い)とか、マイナーなトラブルがわずかにあった程度であった。ところが今日の昼、これまでにない大きなトラブルが起こった。それまで順調に作業をしていたのが、ちょっとテーブルを空けなければならない用事があって、電源とLANケーブルを抜いて、場所を移動した。そのままラップトップで使っていたら、突然システムが落ちてしまった。原因はわからない。たぶん、この時点ではプログラムのトラブルというよりは、むしろ外的なことが原因だったのではないかと思う。暑い日だったからオーバーヒートしたか、あるいはバッテリの接触が何かのはずみで緩んで、電源が落ちたか、前々から少し怪しいモニタ部と本体との接触部分に力がかかったのか、そんな機械的な原因ではなかったかと思う。ともかくも、珍しく動作中に落ちてしまった。しかたないので再起動すると、エラーメッセージの山である。最終的に立ち上がったのだが、どうも不安なので、改めて再起動すると、またまたエラーメッセージの山。そして最終的に「nautilusが起動できませんでした」というエラーメッセージで、さてデスクトップを見ると、デスクトップのファイルがなにひとつ表示されず、メニューバーの表示も半分くらいが消えているという状態になってしまった。この時点で、作業中のファイルは、保存時点までは無事だった。アプリケーションの動作にも問題はない。だからそのまま作業を続けてもよかったのだが、やっぱりデスクトップが消えているのはやりにくい。メニューバーも、せっかく慣れてきたカスタマイズを一からやり直すのは気が重い。このnautilusというのは、デスクトップの表示を司るアプリケーションらしい。Ubuntuを立ち上げると、最初にシステムが起動し、次にデスクトップが立ち上がる。そのときに4つのソフトが表示されるが、最初のものがファイルマネージャーで、次がGnome、その次がnautilusであることは、これまで起動画面をぼうっと眺めてきて知っていた。これらのソフトが集まって、MacintoshでいうところのFinderが構成されているようだ。nautilusは主にデスクトップの表示を司るらしい。このプログラムが、どういうわけか起動しなくなってしまった。さて、困った。MacintoshならばDisk First Aidという診断ソフトがあるし、NortonやDisk Worriorといった診断・回復用のソフトもある。しかし、Ubuntuでそれにあたるものがあるのかどうかわからない。弱った。Macintoshだったらどうするか。診断ソフトでチェックしても治らない場合、システムの再インストールをするだろう。再インストールはおおげさでも、壊れた部分だけでもインストールしなおせばいい。だったらUbuntuでも同じことと、synapticを起動し、nautilusを探して再インストールした。けれど、状況は改善しない。そこで、新規ユーザーをつくって、別ユーザーでログインしてみた。すると、nautilusはちゃんと動いて、デスクトップも正常に表示される。つまり、これはnautilusそのもののエラーというよりは、何か設定ファイルが邪魔をしてエラーを起こしているらしい。さて、実際にはここから、私は非常に馬鹿なことをして危うくデータをすべておじゃんにしてしまうところだった。しなくてもいい危ない(素人にとっての)綱渡りをやって、どうにか危機を脱出した。その話は長くなるのでここでは端折る。ともかくも、潰さなくてもいい2時間近くを潰した挙げ句、正解にたどり着いた。それは、起動時に現れるファイルマネージャーであるmetacityの設定ファイルらしいものをすっかり捨ててしまうことだった。いろいろやっていたら起動時に「metacityの設定を読み込めませんでした」というエラーメッセージが出るのを頼りに、だったらそれを捨ててやれという手段に出たわけだ。ちなみにこのファイル、Homeフォルダの中に隠しファイルで「.metacity」というフォルダがあって、その中に「sessions」というフォルダがある。このフォルダ内に大量の設定ファイルらしいものがあったので、sessionsというフォルダごと削除した。その上で再ログインすると、めでたし、nautilusが作動してデスクトップが元通りに表示されたのだ。ただ、メニューバー(パネル)だけは復活せず、改めて設定をカスタマイズしてやる必要があった。どういうわけかいまだにscim-Anthyだけは表示が戻らないのだが、ともかくも、元通りの環境ができて胸をなでおろした。3時間という貴重な時間を無駄にしたけれど、なんとかなってホッとしている。今回のトラブルは、使用中にシステムにトラブルが発生したというよりは、使用中に不用意に電源が落ちたことの影響で設定ファイルが壊れたことが原因であるようだ。Linuxは電源を落とさない限り安定しているように思うが、正しい手順を踏まずに電源を切った場合にどんなトラブルが起こるかを今回経験したと思っていいのではないだろうか。なるほど、ログアウトには正しい手順を踏まねばならないわけだ。
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2006年08月17日

Epiphanyというブラウザ

Firefoxがリリースされるまで、Macintoshはブラウザが弱点だった。AppleがMicrosoftに出資を仰いだ際の条件だったとかいう話を聞いたことがあるが、Appleはある時点からNetScapeを見限ってIEのMacintosh版を標準装備するようになった。これはこれで決して悪いバージョンではなかったのだが(ブックマークとは別にサイトアドレスを仮に残しておく機能があって、これは便利に使えた)、おそらくMicrosoftの商売上の作戦からWin版に比べてやや機能が抑えられている感があった。Macintosh独自のブラウザとして登場したSafariはシンプルで使い易いものであったが、文字コード設定に難があるのかよく文字化けたし、けっこう見えないサイト、動かないCGIも多かった。だからMacintoshでウェブ検索をしているときには、「これはWinではどう見えているのかな」と想像力を働かす必要があった。それがFirefoxの登場以降はかなり楽になった。現在ではある部分ではIE以上に標準ブラウザの地位を占めつつあるのだから。それでもMacintoshでは、複数のブラウザを使って、ときどきほかのブラウザでどう見えるのかをチェックするようにしていた。サイトによってはCGIのボタンがFirefoxではダメなのにSafari、あるいは古いIEなら通るというような場合もあって、この2つは普段は使わなくても削除できなかった。そのほか、OperaやCameoも積んでいたし、これはメールデータの変換用としてNetScapeを入れたりもしていた。Ubuntuの場合、デフォルトでブラウザはFirefoxであり、それで十分機能するのでほかのブラウザの必要性は感じなかった。それでも、やっぱりときどきIEにしか対応していないと思われるサイトがあり、そんなときには別のブラウザを何種類か積んでおけたら便利だろうなと思っていた。そこで例によってsynapticで調べてみると、Epiphanyというブラウザが使用可能であることがわかった。早速インストールして使ってみると、なかなか使い勝手はいい。ただ、実際にはこのブラウザ、(素人ユーザーにとってという意味だが)Firefoxとなんら変わることはない。それもそのはず、同じGekkoエンジンを使っている。推測に過ぎないが、コードのかなりの部分もMozilaプロジェクトからもらっているのではないだろうか。だから、Firefoxで見えないサイト、使えない機能は、同様にEpipahnyでも見えない、使えない。これではあえて使う意味はないだろう。せっかくインストールしたけれど、遠からず削除の運命にある。
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2006年08月13日

Gnashはまだか…

PPC版のUbuntuでは、いまのところ新しいバージョンのFlashムービーを表示することができないという問題がある。Flashなんてだいたいは広告っぽいものにしか使われていないのだからいいさと痩せ我慢してもいいのだが、見えないとなるとそれはそれで妙に気になるのが人情である。何か代案があればといつも思ってきた。Ubuntuのフォーラムでもこれはたびたび話題に取り上げられているが、どうやらGnashというプロジェクトがソリューションになりそうな様子である。ただ、このGnash、いまだ開発中ということで、試してみることはできない。しかし先日、Ubuntuのフォーラムに、この開発中のソースをPPC用にコンパイルしてみたという投稿があった。
http://ubuntuforums.org/showthread.php?t=199370これによると、まだ完全ではないが、かなりは動くようである。そこで早速インストールしようと思って、投稿者のコンパイルしたものをダウンロードしてみた。しかし、おそらくインストールの手順がよくわからないせいだろう、インストーラーのエラーが出て試用することはできなかった。ひょっとしたら、G4対応なのかもしれないと思うが、追求するだけの時間も知識もない。
きっと、もうしばらく待てば、プロジェクトが進んで安定したプログラムが出回るようになるんだろう。それまでもう少しの辛抱だ。
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2006年08月12日

レイアウトソフトの代案?

Ubuntuになってからはじめて、先日ひさしぶりにレイアウトが絡んでくる仕事があった。そこでScribusを使おうとしてみたら、これは日本語組版への対応が不足だったので使えなかったことは先に書いた。
しかたないのでこの仕事、とりあえずはOpenOfficeでごまかした。MS WordやOpenOfficeはときには印刷関係でも使われることもあるが(ビジネス系印刷などではかえって最近はこのパターンが多いかもしれない)、少なくとも出版印刷関係では相手にされない。なんといっても雑で手がかかるのだ。けれど、今回の仕事はまったくクォリティを求められるものではなかったので、とりあえずこれで胡麻化しを打ったわけだ。ちなみにOpenOfficeは、MS Word同様に縦書に対応しており、いちおうは日本語組版の基本はすべてできる。PDFにフォントも埋め込まれるし(いまどきこんなことが問題になるアプリケーションはないのだが、OS9時代のユーザーにとってはけっこう死活問題だ)、日本語レイアウトソフトとして使用に耐えないとまではいえない。ただ、もともとが横書対応なので、たとえば見開きにすると左右ページが逆転してしまったり、ぶら下げの禁則処理が野暮ったかったり、ルビの設定がいらいらさせられたりと、日本語組版特有の問題に完全に対処しきれているとは言いがたい。さらに、フレームの使いかたなど、MS Wordと互換であるが故のうっとうしさは免れない。だから本当ならこれは使いたくないソフトである。そこで、Scribus以外に代案がないのかなと探してみた。
実は、Ubuntuを使いはじめるにあたって、参考にした記事がひとつある。それはWeb検索で出てきたもので、アメリカのデザイン系の大学の教室が、デザイン業界のスタンダードであるMacintoshを捨ててUbuntuに乗り換えたという報告であった。
  http://opentechpress.jp/article.pl?sid=06/03/27/0518227
これを読んで、私は、「ここまでできるんならLinuxでもなんとかなるかもしれない」と希望をもったわけだ。そして、困った場合はここに羅列されているアプリケーションを試してみればいいと考えていた。
そこで、再びこのサイトを訪れてみると、レイアウトソフトとしてScribusのほかにPassepartoutというのが挙げてある。早速synapticで検索してみると、インストール可能である。それならばとインストールして試してみた。Passepartoutは、LaTexなどとはちがって、私のイメージにあるWYSWYGのレイアウトソフトである。しかし、Scribus、あるいはIndesignやQuarkといった通常のレイアウトソフトとはちがって、画像やテキストといったパーツの配置に特化している。画像がいじれないのはもちろん、テキストの中身もいじれない。ただただ配置をするだけである。
そういったシンプルなアプリケーションもいいかなと思う。ごてごてと機能満載のややこしいアプリケーションは嫌いだ。ちなみにこのPassepartoutという単語、「額縁」という意味だそうで、なるほど、中身よりも外枠を問題にするというレイアウトの基本を外さないいいネーミングだ。もっとも私はこの単語を見ると、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」に出てくるフランス系の小粋な召使を思い出す。そんな気の利いた世界を、このアプリケーションに期待した。けれど、結論をいうなら、やっぱり私にはこのアプリケーションは使えこなせそうにない。というのは、パーツであるテキストの部分を、XMLを使ってレイアウトするようになっているからだ。ということは、まずXMLのアプリケーションを指定して、その上で、テキストエディタでXMLソースの指定をしていかなければならない。これは印刷業界でかつて常套手段として使われたタグの指定と似たような作業になるが、それにしてもやっぱり私にはこういうことを能率よくこなしていくだけの知識が欠けている。XMLは、これからはあらゆる文書のスタイルを指定していく標準になっていくといわれている。現在は頭の痛い問題であるMS Wordの独自形式も、XMLの拡張で解消されるだろうといわれている。そういうことは非常に期待できる流れではある。しかし、そういった流れは、私のような素人の目に見えないところで働くものであってほしい。私がパソコン環境で期待するのは、使い易いGUIであり、WYSWYGの発想で使えるアプリケーションである。ソースをいじるのはプログラマに任せたい。たとえそれがタグ付けのような単純なことであっても。Passepartoutはシンプルだけど、シンプル過ぎて必要な作業をほかのツールに投げ出してしまうという不親切なところがあった。プログラミングに詳しい人ならそれでいいんだろう。けど、そういう人なら、むしろLaTexを使うかもしれない。なかなか私がこれと思えるレイアウトソフトの代案には、Ubuntuではたどり着けない。まだまだしばらく模索が続きそうである。
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2006年08月10日

ヘルプは見てみるもの ─その2

デスクトップが思うようになったことに気をよくしてさらにヘルプを読んでいたら、デフォルトの動画プレーヤーTotemで初期設定外のファイル形式を読むために追加するプログラムが記載されていた。gstreamerという名前を含んだファイルで、全部で5つある。例によってsynapticからインストールしたら、いままでVLC Media Playerからしか再生できなかったMOVファイルの再生がTotemで可能になった。これはうれしい。実は、以前にもこのgstreamerのファイルは発見していて、これをインストールしたらきっとMOVファイルが読めるようになると思っていた。ところが、このgstreamerには上記のようにファイルが5つある。どれをインストールしたらいいのかわからず、説明を読んで「たぶんこれだろう」と思うやつを入れていた。けれど、どれかを選ぶのではなく、全部インストールする必要があったらしい。なるほど、そういうことだったのか。このほか、Firefoxのプラグインとか、MSフォントのインストールとか(これで少なくとも欧文に関してはWindowsと同じフォント環境ができた。しかし、これって著作権は大丈夫なのかねえ)、ヘルプを読んでインストールできたファイルがいくつもあった。やっぱりヘルプって、役に立つ。いまさらだけれど。
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ヘルプは見てみるもの

Ubuntuのデスクトップの外見は、細かにカスタマイズすることもできるのだが、おおざっぱにはテーマの設定で大きく変えることができる。このあたりはWindowsやMacintoshと同じである。私は特にお気に入りの写真を壁紙に貼りつけるような趣味もないので、最初におおざっぱに適当なテーマを選んで、それからはたいしてデスクトップの外見を変えることもなかった。強いていうなら、アイコンの表示サイズや表示フォントを指定したり、メニューバーが天地の2本あったのをMacintosh風に天に統一し、メニューバーの幅や項目をカスタマイズしたくらいだろう。実際には、デスクトップをもうちょっと自分流にアレンジしたいという感覚はあった。長年のMacintosh使いなので、できるだけMacintosh風のデスクトップが手に馴染むわけだ。そういう意味からいえば、このテーマでごみ箱がメニューバー(パネル)に配置されているのはどうも好きになれなかった。単純に見慣れないというだけではない。メニューバーのアイコンは小さく、捨てようと思ってドラッグしたファイルがどこかにいってしまったり、ひどいときにはメニューバーの項目として追加されてしまう。これではありがたくない。できればごみ箱はデスクトップにあったほうがいい。そう思ってはいたが、方法がわからない。わからないわからないで1ヶ月以上が経過した。ふつうなら、わからないことがあればヘルプを開くのだろう。そこに思い至らなかった私はけっこう抜け作である。ともかくも、ようやく、「そうだ、ヘルプがあった」と思って開いてみた。すると、例の設定エディタでnautilusの設定をいじれば、デスクトップにごみ箱を表示させることができるのがわかった。なあんだ。メニューバーのごみ箱は、パネルの設定で簡単に削除できる。これで、Macintosh(OS9)風のデスクトップに一歩近づいた。なお、この設定エディタを使えば、Windows98風にマイコンピュータや文書フォルダをデスクトップに表示することも可能である。そこまでの必要は感じなかったのでやらないが、まあ、ヘルプには聞いてみるものである。
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2006年08月09日

デスクトップ検索への憧れ

数日前、AppleのSteve Jobsが来年リリース予定のOSX10.5(Leopard)の予告を行ったそうだが、けっこう期待外れの声が多く聞かれる。まずSteve Jobsは現行のOSX10.4(Tiger)とMicrosoftが開発中のVistaの機能比較を行い、前宣伝ばかり高くリリースの遅れているVistaが実際にはTigerと大差ないことを明らかにしたらしい。これは実際その通りだろう。Vistaの目玉とされているデスクトップサーチはTigerで導入されたSpotLightそのものだし、そのほかの「新機能」も、たいていはMacで実現しているものばかりである。しかし、大方の期待を裏切ったのは、大規模なアップデートと目されているLeopardが、実際にはTigerのマイナーなアップデートにしかならないのではないかという点であるらしい。細かなことは10.2.8で止まってしまったMacユーザーの私にはわからないが、「それだったらいまのTigerでもできるじゃない」ってことが発表のなかで多かったということらしいのである。いずれにせよ、これだけハードディスク容量が大きくなって個人がため込むデータが増えてきたこの時代、デスクトップサーチがOSの目玉になりつつあるのは間違いがないだろう。Windowsの場合、Vistaを待たなくてもGoogleからデスクトップサーチをダウンロードしてインストールできる。妻が使うのを横目で見ていたら、これは実に便利なツールである。実際、私も将来こういうツールを使うことを想定して、検索して使いたいようなデータベースをため込み始めている。いつか最新のMacを買ったら、Spotlightの機能を最大限に活用しようと思っているわけだ。それを待つまでもないのかもしれない。Ubuntuには、Googleのデスクトップサーチとよく似た「デスクバー」というツールが備えられている。これは、デスクトップのメニューバー(パネル)のカスタマイズ(右クリックもしくはF12)でメニューの追加を選択すると、見つけることができる。通常のファイル検索とちがって、ファイルの中身まで瞬時に検索するという機能をもっているようだ。ただ、残念なことに、これはちょっと使う気になれない。というのは、データのファイリングにOpenOfficeのデータベースを使うようになっているらしいからだ。OpenOfficeはメモリをかなり消費するので、私の環境では常駐させるわけにいかない。ハードディスクもそこそこ消費するようだし、なによりもデスクトップとOpenOfficeという継ぎ目が気にくわない。やはりこういうものは、シームレスに動いてナンボのものだろうから。まあ、これからの時代、なくてはならないツールになってくるから、そのうちUbuntuにももっといい形で実装されるようになると思う。そのとき私がMacに戻っていなければ、改めてお世話になるとしよう。
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2006年08月08日

Linuxのアプリケーションが豊富なんて誰が言った?

たぶんターボリナックスかリンドウズ(リンスパイア)の謳い文句だったと思うが、Linuxはフリーのアプリケーションが豊富にあり、望めば数千ものプログラムが使い放題であるというものがあった。MacでもWinでも世の中にフリーウェアは数多いが、Linuxの場合、その成立ちからいってさらにフリーのアプリケーションが多い。のだろうと、そういった広告を見て私は思っていた。けれど、この数千という数は相当に割り引かねばならない。私のUbuntuの場合、PPC版(Mac版)ということでインストール可能なプログラムの数はSynapticに登録されているものだけで千数百ある。数千とまではいかなくとも、大変な数である。よりどりみどり、自分にあったソフトを選び放題、と思ったら実はそうではない。というのは、この千数百の中には単体で動くアプリケーションだけでなく、プラグインや設定ファイル、データファイルなどが大量に含まれているからだ。たとえば、日本語環境で使う場合、日本語用のデータファイル(と英語用のデータファイル)を入れれば、残りの数十のローカライゼーション用のファイルは不要になる。こんなふうに、使おうと思っても使いようのないプログラムが大量に含まれている。デスクトップ環境が複数存在するというのも、デフォルトのデスクトップ環境であるGnome以外の環境で使用するアプリケーションの多くが実用的に使えないという結果を生み、また大量の(素人には)使えないプログラムの山を築いている。ということで、千数百もアプリケーションがあると思ったら大間違いで、素人がGUI環境で使えるアプリケーションはたいして多くない。もちろん、Web関連やオフィスツールなど、基本的な業務に必要なアプリケーションは揃っているから支障はないのだが、たとえば複数のテキストエディタを比較検討して気に入ったものを使おうというような贅沢は許されていない。テキストエディタはいくつか使用可能なものがあるにはあるが、実用的にはデフォルトのGnomeテキストエディタ以外に選択肢はないようなのだから。Macの場合、マイナーなフリーウェアを探してきては、インストールして試してみるのが楽しみだった。なかには(たとえばグラフィックのSeashoreやTVviewer、FTPクライアントのCyberDuck、テキスト操作のiSedなど)、手放せないツールになったものも少なくない。Ubuntuの場合、こんな宝探しの楽しみはなさそうである。
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